러시아 연해주의 조선인
ロシア極東の朝鮮人
-ソビエト民族政策と強制移住-
岡 奈津子
序 論
なぜ多くの朝鮮人が中央アジアにいるのか。朝鮮人に関するソ連の研究は、ごく最近までその問いに正面から答えてこなかった(1)。ゴルバチョフ政権によるペレストロイカの時代に、それまで見ることができなかった公文書館の資料が公開され(2)、朝鮮人たち自身も活発に発言するようになってようやく(3)、強制移住を中心に多くの事実が明らかにされてきた。 1980年代末以降、とりわけ連邦崩壊後は、ロシアおよび中央アジアでいくつかの新しい研究が発表され、帝政ロシア時代、強制移住後のカザフスタンやウズベキスタンでの生活、サハリンを含めた極東における通史など、扱う時代や地域も広がりを見せてきている(4)。西側ではすでに1950年代から、朝鮮人の強制移住をとりあげた研究が発表されてきたが(5)、ロシア極東への移住開始から強制移住までをはじめて詳細に描き出したのは、和田春樹の論文であった(6)。本稿は、その後刊行されたものや現地の新聞など新しい資料を数多く利用しているが、朝鮮人社会がたどった歴史の基本的な流れは、和田論文に依拠している。
本稿では、帝政時代のロシア極東への移住や強制移住後の中央アジアでの生活について触れることはせず、極東でソビエト政権が最終的に樹立された 1922年から、朝鮮人が中央アジアへ追放される1937年までを対象とする。まずはじめに、20年代のロシア極東における朝鮮人移民の困難な生活と土地・国籍問題をとりあげ、次に農業集団化とその過程で朝鮮人たちがこうむった差別および当局側の対応をあきらかにする。さらに20年代末から30年代にかけての北方への民族差別的な移住政策に触れたうえで、最後に強制移住がどのように行われたかを詳しく見ることとする。本稿ではとくに、ソビエト政権樹立時から一貫して存在する朝鮮人に対する当局側の不信が、37年の強制移住に結び付くさまを明らかにしたい。なお、ロシア極東の朝鮮人社会を見る場合、朝鮮独立運動との関係は極めて重要であるが、本稿では扱わない(7)。
ロシア極東の行政区域は、歴史上極めて複雑な変遷を経てきている。本稿が扱う時代には、極東全体を含む行政区域として極東州・極東地方、朝鮮人が多く住んでいた極東南部を含むものとしては沿海州《Приморскаяобласть》・沿海県・ウラジオストク管区がある。また、日本海沿岸地域は「プリモーリエ《Приморье》」と呼ばれ、日本ではこれを慣用で「沿海州」と言うことが多いが、本稿では「プリモーリエ」を適宜当時の行政区域名にあてはめて訳出し、それが不可能な場合には行政上は存在しない場合も「沿海州」とした(8)。
1. 1920年代のロシア極東における朝鮮人
(1)朝鮮人農民の経済状態
ロシア極東に朝鮮人がはじめて現れたのは、1860年代のことといわれている。初期の移民は、祖国で飢饉に襲われ、生活の糧を求めて沿海州にやって来た人々であった。1910年、日本が朝鮮を植民地化すると、その政治的・経済的圧迫を逃れ、より多くの朝鮮人がロシア領に流入して来るようになった。
ロシアに移住して来た朝鮮人はその大部分が農業に従事していたが、彼らにとって最も深刻な問題は、その大部分が土地を持たないか、わずかな土地しか持っていないことであった。多くの朝鮮人の経済状態は惨めなもので「次の収穫まで食糧が足りないこともしばしば」(9) であった。
1923年、極東州の朝鮮人人口は11万280人で、州全体の7%を占めていた(10)。また別のデータによると、同年、極東州には9万561人の朝鮮人農民がおり、州全体の農村人口のおよそ8%を占めていたが、なかでもその南部に集中していた。朝鮮人が農村人口に占める割合は、州南部の沿海県では21%、さらに沿海県南部のウラジオストク郡とニコリスク・ウスリースク郡の平均では49%にのぼっていた。一方、ウラジオストク郡の農家一世帯あたりの年間収入は、ロシア人 466.5ルーブルに対し、朝鮮人はわずかに159ルーブルで、両者のあいだには大きな格差があった(11)。
1922年12月1日から施行されたロシア共和国土地法典は、国内の私的土地所有を廃止して土地を国有化し、土地を自分で耕作する国民には無期限の土地利用権を与えると定めていた。これに従えば、ロシア国籍を持つ朝鮮人はロシア人と同様に土地を分与されるはずであった(12)。
1923年現在、沿海県の朝鮮人10万6817人のうち、ロシア国籍を持つ者は3万4559人、持たない者が7万2258人であった(13)。当時沿海県では、朝鮮人の全世帯1万7226のうち、播種地を持つ農家は1万5253世帯あったが、そのうちの1万1831世帯(全体の77.6%)は土地を賃借していた(14)。国籍を取得していた者が全体の32.4%であるから、ロシア国籍を取得した者でも自分の土地を持たない朝鮮人がかなりの数にのぼっていたのである。
また1924年8月、ポシエット地区党書記であるアファナーシー・キムが沿海県朝鮮人労働者大会で行った報告によれば、沿海県の全農民が保有する 403万デシャチーナのうち、朝鮮人のそれはわずか4万3095デシャチーナであった(15)。
このように、朝鮮人は土地法典の恩恵を十分に受けていなかったが、その一方で土地法典の導入は、土地なしの朝鮮人農民に別の新たな問題を引き起こした。法典が、土地の占有は勤労利用権に基づいてのみ認められるとしていたため、それまで朝鮮人に土地を貸していたロシア人農民が、小作に出すのをやめて自分で耕作し始めたのである。ハン・ミョンセ(後述)によれば、多くの場合、それは「自分の土地を失わないための見せかけの行為」であったが、朝鮮人は生計を立てる手段を奪われてしまったのであった(16)。
このような事態に対処するため、極東土地管理局は1923年3月、朝鮮人に土地を貸していたロシア人農家に対し小作期間の延長を命じた(17)。しかしそれも完全には実行されず、小作がやみで行われるようになり、その条件はいっそう悪化した。この結果、沿海県の朝鮮人の7割が、秘密裏に隷属的な条件で土地を借りることを余儀なくされ、また生活の手段を失った5000人もの朝鮮人が、ロシアを去って満州へ逃れたという(18)。
1929年の春から夏にかけてウラジオストク管区で実施された調査によれば、同管区の朝鮮人人口は15万795人、3万1731世帯で、そのうち農家が12万9673人(全体の86.0%)、2万3282世帯であった。国籍の有無については農家のデータしかないが、ソ連国籍の者が占める割合は 48.4%、外国籍が51.6%であった。そのうち自分の分与地を持っているのは、ソ連籍の59.5%、外国籍の10.1%で、全体では31.1%に留まっている。また、土地を持たず農業労働者として働いているのは2811世帯で、全朝鮮人世帯の8.9%を占めていた(19)。
ほかの管区でも、事態はあまり変わらなかった。1927年に開催された第2回極東地方ソビエト大会で発言したある朝鮮人代議員によると、極東全体では1万8000世帯以上が土地を持っておらず、最近1年間に土地を受け取ったのは814世帯にすぎなかった(20)。またアムール管区の代議員は、同管区の朝鮮人たちは移住してきて30年になるが、1デシャチーナの土地すら持っていない、と不満を述べている。「われわれのところの朝鮮人住民は力尽き、これからどうしたらよいのかもわからない」。地元の土地管理局から穀物の配給を受けるほど、生活は困窮していた(21)。
また別の代議員は、土地問題に関する政府の無策を次のように非難している。
「1923年以来、朝鮮人村の唯一の話題は土地のことであった。沿海州にソビエト政権が立てられた時、朝鮮人にもロシア人と同じく土地を与えると言われたが、今までそれは行われていない。そのような状況のため、我々朝鮮人の活動家は村で権威を失い、まぎれもない嘘つきと思われている。ソビエト化のはじめに朝鮮人に約束されたことが実行されていないために、朝鮮人は飢餓の淵に立っている」(22)。
一方朝鮮人は、20世紀初頭から米作農民として注目を浴びるようになっていた。ロシア極東における米作の歴史は比較的浅く、そのはじまりについては諸説あるが、米を最初にもたらしたのは朝鮮人であるという点ではほぼ一致している(23)。 ロシア極東の米作は、いわゆるシベリア出兵のさいに進駐した日本軍の食糧として、米に対する需要が高まったことから発展した。日本軍の撤退後、一時的に水田面積は減少したが、以下の表に示されるように、20年代後半には急増した。
ウラジオストク管区の水田面積(単位ヘクタール)(24)
米作の急激な発展の背景には、小麦やライ麦の2倍以上という米の価格の高さがあった(25)。しかしこのことは、米作のノウハウを持つ朝鮮人にとって、必ずしも有利に働いたわけではなかった。
ソビエト政権のもとで極東の経済復興事業がはじめられると、市や地区の行政当局は米作収入が高いことに目をつけ、試験的に潅漑施設を造ったところ、成果は上々で建設費用もすぐに回収できたため、米作用の水利事業はますます盛んに行われるようになった。しかしこの結果、米作農民と農場の所有者である地方国家機関とのあいだに「新しい関係」が生まれた(26)。地区執行委員会等は事実上大地主と化し、「朝鮮人から賃貸の汁を吸う」ことにより略奪的利益を得るようになったのである(27)。
1920年代の米作を支えていたのは、朝鮮人の手作業であった。
「水田の種蒔き、除草、収穫は手で行われ、耕作だけは朝鮮牛を使った非常に原始的な犂が使用されているが、それさえしばしば鍬の手作業にとってかわられる。仕事の大部分は、腐った有機残存物と辛く有害な蒸発に耐えつつ、水中で行われる……。このような条件下では、米作を支えることができるのは非常に控え目な黄色人種の労働力だけである」(28)。
ウラジオストク管区では1928年、全水田の74.4%が小作地であったが、国営地(全体の41.0%)に限れば、その割合は97.6%に達していた。賃貸契約はふつう一季ごとに行われ、多くの小作人は毎年小作地を移動した。また、通常の賃貸料は収穫の4分の1であったが、水田の所有者が自ら開墾した土地を貸した場合はその半分とされた(29)。
帝政時代、ロシア人や同胞の地主に苦しめられた貧しい朝鮮人たちは、ソビエト政権の樹立によって新しい時代がはじまり、それまでの隷属的状態を脱することができると期待していた。しかし彼らの望みは、新政府の土地改革によっても達成されなかったのである。
(2)国籍問題
ロシア極東に移住して来た朝鮮人にとって、日本人は祖国の独立を蹂躙した敵であった。また革命ロシアにとっても、日本は侵略者であった。ソビエト政権を打倒するための干渉戦争に加わった諸外国のなかで、日本は最も長期にわたる軍事干渉を行ったのである。1918年8月、日本軍はウラジオストクに上陸を開始したが、20年になって他国が引き揚げたあとも、居留民保護を名目に極東に居座り続けた。
日本が出兵に執拗にこだわったのは、大陸への勢力拡大のほかに、極東における朝鮮独立運動の阻止を狙っていたからでもあった。日本軍はロシアの革命指導部と朝鮮独立運動に大弾圧を加え、とくに朝鮮人に対しては、村を襲撃し住民を逮捕し、民族学校や新聞社を焼き払った。このときロシア極東の朝鮮人は、日本の侵略に対抗すべく立ち上がり、またソビエト政権樹立のために闘った(30)。
しかしその一方で、日本は朝鮮人の村々に親日組織をつくり富裕な朝鮮人をその会員としたほか、占領機関や水産業などで朝鮮人を積極的に雇用した。また沿海州には、日本軍へ物資を納入するため、朝鮮からたくさんの業者が流れ込んで来た。これらの朝鮮人たちは「日本人の庇護のもと、ロシア人住民を零落させ、ロシア人と朝鮮人のあいだの憎しみを極限まで増大させた」ともいわれている(31)。
日本側に協力する朝鮮人が現れた背景には、帝政ロシア時代の民族関係が影を落としていた。極東に移住して来た貧しい朝鮮人農民は、ロシア人地主の搾取にあえいできた。そのため朝鮮人の一部は「日本人の保護を利用して、革命以前にロシア人から受けた侮辱、弾圧、はずかしめすべてに対する仕返しをしようとした」のであった(32)。
日本軍は1922年10月に最終的に撤退し、極東ではソビエト政権が樹立され、親日組織は消滅した。しかしその後もロシア人と朝鮮人のあいだの緊張した関係は解消されず、そのことは朝鮮人への国籍付与問題にも影響を及ぼした。
帝政ロシア時代同様、ソビエト政権下においても、国籍を持たずにロシアに滞在する朝鮮人は居住許可証の購入を義務づけられていた(33)。しかし小作料の支払いに加えてさらにそれを買う余裕がなく、非合法に滞在する者もいた。小作人や雇農として隷属的な条件に甘んじていたのは、とりわけそのような人々であった(34)。この問題を解決するには国籍取得が不可欠であり、それによって朝鮮人たちは法的な地位の安定を得るとともに、ロシア人と対等に土地を分与されるはずであった。
1923年、臨時統治機関である極東革命委員会は各県の執行委員会に「朝鮮人のソ連国籍移行希望願の審査に関する特別委員会」を設立したが、作業を進めるうち、朝鮮人の大部分が国籍取得に必要な一連の形式を満たすことができないことが判明した(35)。そこで極東革命委は24年、18年以前に極東へ移住してきた朝鮮人労働者については、提出書類の一部や印紙税の免除等によって手続きを簡略化した(36)。 23/24会計年度には、この委員会を通じて2000世帯以上が国籍取得を認められたという(37)。
しかし実際には、当局は内戦期およびそれ以降に移住してきた朝鮮人の帰化にはやや慎重であったようである。優先的に国籍を与えられたのは、共産主義者、旧パルチザン、議員や土地を分与されている朝鮮人で、20年代後半になっても8万3000人以上の朝鮮人が国籍を得られずにいた(38)。1926年の全朝鮮人人口は16万8009人であるから、外国籍ないし無国籍の朝鮮人は全体のほぼ半分を占めていたことになる(39)。
これについてハン・ミョンセ朝鮮共産党中央ビューロー委員(40) は、プシェニツィン沿海県党委員会書記が朝鮮人の国籍取得に反対していたため、それが遅れたと述べている。彼によればプシェニツィンは、1918年以降、日本の干渉以後にロシアに来た朝鮮人のなかに、親日的分子がいることを示唆した発言を行っている(41)。また党極東ビューローも、朝鮮人の国籍取得が「日本との外交関係に困難をもたらす」と考えていただけでなく「干渉戦争の時、白軍の勢力下で、日本の軍国主義者と関係のある政治的危険分子が[沿海]州に侵入してきた」として、朝鮮人を危険視していた(42)。
1922年12月26日、ハンはロシア民族問題人民委員へあてて「沿海県の朝鮮人住民の状況に関する簡潔な報告書」を送り、次のような提案をしている。
「朝鮮共産党の直接の指導のもとで、民族・文化的自治単位に組織された沿海県の朝鮮人こそが、日本のスパイの根元地の一掃と、日本の干渉によって堕落させられた朝鮮人の階層の健在化を、率先して行わなければならない…… 日本の軍国主義者と資本家の隠密な陰謀をすべて監視できるのは……ソビエト権力の指導をうけた朝鮮人住民自身の党・行政機関のみである」(43)。
一方、極東地方執行委員会のある朝鮮人問題全権委員が1923年1月、ハンにあてた手紙には、党極東ビューローが1922年12月「すべての朝鮮人は沿海州から国外へ、あるいはアムール州かザバイカル州へ移住させるべきである」との決定を採択したため、いかなる自治領域の話もできなくなった、と書かれている(44)。
このような情報を得たためであろう、1923年1月18日、ハンは再び民族問題人民委員にあてて手紙を送った。
「ロシア共産党中央委員会極東ビューローは、すべての朝鮮人を沿海県から移住させるよう命じた。これはばかげたことだ。動機は、極東で朝鮮人を通じて日本の影響が広まっているからだという。我々はこのことをよく知っており、この現象と闘う問題を真っ先に掲げた。しかしこのためには、沿海県からの朝鮮人大衆すべての『移住』ではなく、組織された、目的にかなった闘争が不可欠なのである」(45)。
また彼は1924年5月、沿海県の朝鮮人について報告したなかで、再び以下のように主張している。
「沿海県における朝鮮人問題の最も急進的な解決は、朝鮮人に領土的な、州レベルの自治を与えることであろう。すなわち、朝鮮人が集住している三つの地区(ポシエット、スーチャンおよびスイフン)を朝鮮人郡または地区にし、州都はウラジオストクにする。問題は、朝鮮人が極東全体に分散していること、すべての朝鮮人が十分な土地を持てるように領域の境界を定めるのが困難であること、ロシア人との土地関係が複雑になっていること……などである」(46)。
これと同じころ、コミンテルン執行委員会東方部でも、朝鮮人自治領域創設問題がとりあげられていた。1924年5月、朝鮮人問題について話し合われた会議では、「朝鮮人自治コミューン創設」について、プシェニツィン沿海県党委員会書記、ガマルニク沿海県執行委員会議長、リ・ヨンセン沿海県党委員会高麗部書記の報告を受け、次のような結論を下している。
朝鮮人自治州の創設は、ロシア極東にとってのみならず諸外国(日本、朝鮮、中国、満州)に対し政治的に極めて重要な意味を持つ。
朝鮮人問題の急進的解決に伴う困難について、プシェニツィン同志とガマルニク同志の考えでは、これらの困難は非常に深刻ではあるが、決して克服できぬものではない。自治州を早急に創設することは、現時点では時宜をえないが、その創設を真剣に、粘り強く準備することは可能でありまた必要である。
準備的作業は、まず第一に朝鮮人に対する土地分与問題を解決することである。したがって、土地分与作業を拡大し、移住問題を調整しなければならない。
また同時に、行政的・法的問題、とくに沿海県の朝鮮人住民をロシア国籍に移行させる問題の解決が不可欠である(47)。
1920年代、新たな移民が次々と押し寄せてくるなかで、ロシア極東は国境地域に大量の外国籍朝鮮人を抱えていた。ソビエト政権は一部の朝鮮人に国籍を付与したが、すべての朝鮮人の帰化には消極的であった。その背景には、新参の移民がソビエト政権に忠実でなく、親日的危険分子なのではないかという懸念があった。その一方で、朝鮮人に国籍を与え、さらには自治領域を与えることが、国際共産主義運動の観点からも重要であり、それに向けて努力すべきであるという意見もあった。
この国籍問題は、国際情勢が緊迫化するなかで朝鮮人の移民が禁止されるに伴い、最終的に解決されることになる。これについては第3節で詳しく述べることとする。
2. 農業集団化
(1)農業集団化と朝鮮人
1920年代の終わりには、依然として発展途上にあった農業の改革が、ソ連にとって大きな課題となっていた。27年12月に開かれた第15回党大会は「農民のさらなる協同組合化を基に、零細農家を大規模な生産(農業の集約化と機械化に基づいた集団的土地利用)へ漸次的に転換」させることを宣言し(48)、これをきっかけに農業集団化は本格的な幕を開ける。さらに29年11月の党中央委員会総会後、ソ連全土で全面的集団化が開始され、極東もその嵐のなかに巻き込まれていった。
その大多数が貧しい農民であった朝鮮人たちにとって、農業集団化は大きな意味を持っていた。1930年9月、地元紙『太平洋の星』に掲載された「朝鮮人問題の徹底的解決」と題する論文は、朝鮮人の集団化の特徴を次のように論じている。
「朝鮮人の農業の経済的遅れと組織化されていない分断状態を抜本的に変える手段となるのは、貧農・中農大衆の集団化である。朝鮮人の集団化は、さまざまな民族的特質や、民族間関係から生ずる一連の要因によって、必然的に困難なものとなっている。これらの特質は、依然として強いクラークの貧農・中農大衆への影響力、朝鮮人の農村はクラーク的・搾取的分子を排出しない純粋な社会的集団であるという偽りの論理、朝鮮人の農業の大幅な文化的遅れ、政権やロシア人全体に対する民族的不信、そして日常的・宗教的偏見に見られる」。
ここでは、朝鮮人のなかにクラークが存在しないと考えるのは「偽りの論理」であると述べられている。確かに、なかには同胞を雇う朝鮮人地主もいた。しかし朝鮮人の多くは貧農階級に属しており、その彼らが集団的土地所有に与えられた特権を利用して、土地を得ようとしたのは当然であった(49)。とはいえ朝鮮人にとっても、集団化はすべて自由意志のもとに行われたわけではなかった。この論文ではさらに次のように述べられている。
「集団化の過去の実践においては、これらの特質は多くの党機関によってあっさりと忘れられ、必要な警戒も注意も払われなかった。命令的指導、強制、コルホーズの最も単純な形式の省略、巨大マニア、全面的集団化と無関係なクラーク撲滅、純粋な朝鮮人コルホーズの創設の禁止、個人農の軽視ムこれら周知の逸脱が、とくに朝鮮人地区(ポシエット、スーチャン、ポクロフカ、ハンカ)で見られたのである」(50)。
全面的集団化の時期に犯された「逸脱」について、ペレペチコ極東地方党委員会責任書記は次のように述べている。
「ハンカ地区のいくつかの朝鮮人村では、次のような宣伝が行われた。お前たちには三つの道がある。中国に逃れるムあちらでは飢餓と屈辱、隷属が待っている。この道は塞がっている。第二の道は、シンダ地区への移住だ。そこには住居も食糧もなく、ブヨとあらゆる病気が待っている。この道も塞がっている。残るのは唯一、第三の道のみだ。これはコミューンだ。そこでは問題なく暮らしていくことができる」(51)。
また、朝鮮人の側にロシア人不信があったのは無理もないことであった。ロシア人が朝鮮人農民に対して強い偏見を持っていたからである。「東洋人農民の大多数(雇農、貧農、中農)は今だに非常に後れているので、彼らの集団化などは話にもならない」。「朝鮮人農民は労働生産性が低く、コルホーズをめちゃくちゃにするだけだ」(52)。このような偏見に基づく差別は、朝鮮人が集団化を拒否したり、コルホーズを脱退する原因となった。
1930年8月、ニコリスク・ウスリースクで、極東地方朝鮮人コルホーズ員大会が開催された。この大会には、56のコルホーズから67の代表が参加した。
大会では、ペトロフ極東地方コルホーズ同盟理事が「朝鮮人コルホーズの状態とその当面の課題」という報告を行った。それによれば、アムール、ニコラエフスク両管区を除く極東地方には、7500世帯からなる89の朝鮮人コルホーズがあり、全体の30%が米作コルホーズであった。
朝鮮人代表の多くは、朝鮮人コルホーズへの差別問題をとりあげた。以下は、ウラジオストク管区の代表の発言である。
ハンカ地区の「星」コルホーズは、トラクターはもとより種蒔機を一台も持っていない。それなのに「星」コルホーズよりも遅く結成された隣のより小規模なコルホーズは、あらゆる機械類を持っている。ウラジオストク管区のコルホーズに分配されたトラクターは全部で300台だが、管区の全コルホーズの4分の3を占める朝鮮人コルホーズが持っているのはたった4台である。
チェルニゴフカ地区では土地整理員が故意に、ある朝鮮人コルホーズの土地にまったく役に立たない丘と沼を割り当てた。「赤い農夫」コルホーズは、極東国立大学の管轄下にある土地を借りているが、石が多く、プラウでも耕せないような土地である。それなのに大学側は、1ヘクタールあたり60ルーブルの賃貸料を巻き上げている。
このような発言を背景に、朝鮮人コルホーズ員大会は「朝鮮人コルホーズに十分な配慮を払わない地区コルホーズ同盟の一部が持っている排外主義的傾向と、容赦なく闘わねばならない」と宣言した(53)。
ここで当時、地元紙にさかんに掲載された朝鮮人への差別問題を、さらに具体的にとりあげてみよう。
朝鮮人からなるスーチャン地区のスターリン名称コルホーズには、五つのばらばらの分与地が割り当てられたが、そのうち四つはスーチャン川の対岸にあり、コルホーズ員たちは川をボートで越えていかなければならなかった。しかも二つの分与地は水害に見舞われていたため、コルホーズはこのような措置に抗議した。しかし地区の土地整理員は「ロシア人個人農がそう望んでいるのだ」と説明し、また水害にあった土地は「ヒエなど丈夫な作物を植える朝鮮人に割り当てるのが妥当だ」と公言してはばからなかった(54)。
一方、スイフン地区のコルホーズ「第三インターナショナル」はロシア人66人、朝鮮人89人からなり、「スイフン渓谷」は27世帯中、11世帯が朝鮮人であった。これらのコルホーズで朝鮮人は苦労して米を作っていたが、ロシア人からは「朝鮮人は怠け者だ」「働くこともできないし、働こうともしない」と言われ続けていた。
「第三インターナショナル」では、小麦や砂糖などの配分は朝鮮人に極めて不利であった。コルホーズ管理部には朝鮮人は一人しかおらず、しかも食糧の分配などに関する決定からはいつも除かれていた。1930年の夏には、配給を受けられなかったことを理由に、朝鮮人9世帯がコルホーズを脱退した。
また「スイフン渓谷」では、あるコルホーズ員が朝鮮人にロシア人と同じバケツで水を汲むことを禁じたり、集会で二人の朝鮮人を強制的にコルホーズから脱退させる決定が下されたりした。「スイフン渓谷」のある朝鮮人コルホーズ員は、次のように訴えている。
「我がコルホーズの管理部はロシア人だけからなっているため、朝鮮人をいつも抑圧している。たとえば食糧分配の時でも、ロシア人には良いものを与え、朝鮮人には悪いものを与えている。ソバの分配でも同じだ。私の家族は6人だが、5人分しかもらっていない。我々が幾度となく苦情を述べても管理部は無視している」。
このような状況を目にした朝鮮人の個人農たちは、コルホーズで暮らすのも悪くないが、ロシア人がいないことが条件だ、と述べている(55)。
1920年代末に至っても多くが土地を持たなかった朝鮮人農民は、集団化によって結果的にその経済状態が向上した。しかし朝鮮人の集団化においても、ほかの民族と同様に、さまざまな強制的手段が用いられた。それに耐えかねて、国外へ逃れる朝鮮人も続出した(56)。一方、集団化を受け入れた朝鮮人農民にも、困難が待ち受けていた。彼らはロシア人のいるコルホーズでは必ずしも歓迎されず、さらに全面的集団化期には朝鮮人のコルホーズ運動そのものが、あからさまな差別を受けたのである。
(2)党の民族政策と差別解消への努力
1930年5月に開催された第10回極東地方党協議会でペレペチコは、依然として東洋人労働者に対する態度には目に余るものがあり、大国主義的排外主義 ォвеликодержавный шо-винизмサは党および労働組合組織からの反撃にあっていないと指摘し、これらの階級敵による排外主義的攻撃と闘うには、教育的措置と並んで、最も厳格な懲罰措置をとる必要があると述べている(57)。
また極東地方党委員会ビューローは同年12月1日、民族政策に関する決議を採択し、東洋人労働者のあいだの活動状況について話し合うこと、通訳をつけることによって彼らを党集会に積極的に参加させること、東洋人の党員を増やすことなどを各管区、市、地区の党委員会に命じている。また民族間の不平等な労働条件の是正、食糧の正しい分配の点検などが、しかるべき機関に義務づけられている(58)。
しかし30年12月10日付の『プラウダ』は「聞き入れられない警告」と題した記事のなかで、以前同紙が「極東において党の民族政策をあからさまに歪曲した事例」について警告したにもかかわらず、実際には改善が見られないとして、極東地方党委員会を批判している(59)。
極東地方党委員会ビューローの決議は、1930年6月に行われた第16回党大会の決定に基づいて出されたものであった。この党大会は大国主義的排外主義との闘争を掲げ、レーニン的民族政策の実行、民族的不平等要因の除去、ソ連邦諸民族の文化の大いなる発展への注意を強化するようすべての党組織に命じていた(60)。
このような「大ロシア主義」との闘いは、すでにソ連邦結成当時から党の最重要課題の一つとして掲げられていた。しかし、極東の朝鮮人との関連においてそれが盛んに論じられるようになったのは、地方紙を見る限りでは、30年代初頭になってからのことである。
1931年2月には、極東地方党委員会・統制委員会合同総会が、民族問題に関する決議を発表した。決議は、大国主義的排外主義の清算のためには、労働者の国際主義教育を強化するとともに、排外主義者に対する裁判・懲罰措置を強化・拡大しなければならないとして、厳しい態度で臨むようすべての党組織に求めている。また朝鮮人の集団化については「朝鮮人貧農・中農の集団化は非常に大きな意味を持っており、コルホーズ同盟、機械トラクター・ステーションそのほかすべての組織は、朝鮮人コルホーズに対する融資、機械・技術および種子の援助にとくに注意を払わなければならない」と述べられている(61)。
また中央では、ソ連邦コルホーズ・ツェントル管理部が1931年4月、極東地方における朝鮮人の集団化について報告を受け「朝鮮人の集団化の著しい発展、米・工芸作物作付面積の増加、コルホーズ大衆の積極性の高揚を確認」した。しかしそれと同時に管理部は、朝鮮人のコルホーズ建設において「多くの最も深刻な欠陥と過ち」が犯されたこと、極東の地区組織が朝鮮人コルホーズに「配慮と援助をまったくしなかった」ことを指摘している。
そのため管理部は「地区組織職員の大国主義的排外主義」に対し「断固とした措置をとらなかった」極東地方コルホーズ同盟を戒告処分にするとともに、春蒔きの時期までに朝鮮人コルホーズに土地を与えること、ウラジオストク管区土地管理局の責任者を告訴すること、また同盟の管理部に2人以上の朝鮮人を加えることを命じた。
さらに「朝鮮人住民が多数を占める地区でコルホーズ機構の朝鮮化《корейзация》を行い、ポシエット、スイフン、スーチャン、ポクロフカ、グロデコヴォ、オリガ、シュコトヴォ、ハンカの各地区では、地区コルホーズ同盟管理部の議長あるいは副議長に朝鮮人を選出しなければならない」とも述べられている(62)。
このように極東の少数民族、とくに朝鮮人や中国人に対する差別問題がしきりにとりあげられたのはなぜだろうか。
まず第一には、政治的理由があげられる。極東での民族問題の解決は「隣接する国家ム中国および朝鮮ムにおける革命運動の発展に極めて重要な役割を果たす」と考えられていたのである(63)。
たとえば、前出のポシェット地区党書記アファナーシー・キムは、ソ連が国境を接している中国と朝鮮の多民族からなる人々は、目下世界唯一のプロレタリアート祖国としてソ連を見ているのだから、中国人や朝鮮人に対する差別的傾向はよりいっそう危険なものである、と指摘している(64)。また1931年2月に開催された極東地方教師大会では「教育問題における党の民族政策について」という報告のなかで、「民族問題における我々の成功一つ一つが、外国帝国主義への大いなる脅威」であり、それが「国外に住む中国と朝鮮の労働者に革命的影響を強く及ぼしており、彼らを資本との闘いに動員している」と述べられている(65)。
ここでいう「外国帝国主義」には、当然日本も含まれるのであろう。ロシア極東における諸民族の共存が宣伝される背景には、朝鮮を植民地化し満州の占領をもくろみ、朝鮮人と中国人を抑圧する日本の政策の不当性をアピールする意図があったものと思われる。
党が差別解消にのりだした背景として次に考えられるのは、経済的理由である。「東洋人労働者」と呼ばれた朝鮮人と中国人は、極東経済に重要な位置を占めており、地域の発展のためにはその労働力の利用が不可欠であった。
クーリペ極東地方党統制委員会議長は委員会報告のなかで「朝鮮人は我々の地方の経済に大きな役割を果たしている。彼らは我々の米作農民である」と述べているが、集団化のさいの過ちがゆっくりとしか修正されないため、朝鮮人のあいだで国外への移住傾向が見られるとし、また「ロシア人は朝鮮人に対してしばしばひどい態度をとっている」と非難している。さらに、ウラジオストク管区では全労働者の31.5%(鉱業の53.1%、林業の37%、化学工業の 39%)が中国人によって占められていると指摘している(66)。
労働の現場で発生した深刻な差別が、人手不足を引き起こすこともあった。たとえば、アルチョム炭坑では1240人の東洋人労働者が働いていたが、給料のごまかしや、辛い仕事しか与えられないことなどが原因で退職者が続出し、坑夫全体に占める東洋人の割合は30年1月には50%であったが、1年間で 12%に激減した(67)。また沿海州のイヴァノフカ木材調達企業では、ロシア人労働者はバラックに住んでいたが、中国人と朝鮮人は洪水で破壊された劣悪な住居に押し込まれ、給与未払いに苦しめられていた。そのため400人いた東洋人労働者のうち残ったのは38名だけであった(68)。
このような政治的・経済的必要から、中央の意向に従いつつ、極東地方当局は積極的な反差別キャンペーンを展開した。遅ればせながら排外主義の根絶にのりだした党の対応は、朝鮮人の不満をある程度吸収したであろう。30年代もなかばにさしかかると、紙上での差別摘発は姿を消した。ただし、これが実際の差別の解消を意味しているのかは定かではない。
3. 1930年代の朝鮮人政策
(1)移民の流入と国境保全をめぐる議論
20年代なかばから30年代はじめにかけて、朝鮮人移民の是非について、さまざまな議論が交わされている。
ある論者は、朝鮮人は勤勉な農民であり、朝鮮人たちが極東の経済発展に寄与するならば、地元民の利益と極東の植民計画を犠牲にしない限り受け入れるべきであると考えていた。しかし彼はまた、以下のように警告を発している。
「外国人が過剰に住み着くことは、自らの領土内で彼らを客人として温かく受け入れる国に、時には脅威を与えるというのは周知の事実である。大量の移民は、いやおうなしに敵対的国々の陰謀の道具となり、そして帝国主義的強奪の道具の一つとなるがために、危険なのである。だからこそ我が地方の党組織は、外国人による植民措置の政治的意味を理解しなければならない」(69)。
なかには、朝鮮からの移民は日本の植民地政策の一環として組織的に行われており、このままでは極東が日本に併合されかねないと危惧する者もいた(70)。
他方、朝鮮人移民のマイナス面だけを強調する、あからさまな黄禍論者もいた。1930年、ベリデニノフという人物が小冊子『極東地方における米作ム数字、事実および観察』を出版しているが、この本の内容は、彼を酷評したクルチェーエフの書評を通して知ることができる。
「ベリデニノフの著書は『黄色い危険』という陰険な考えがすべて基調になっている。『米作は朝鮮人の流入を促進する』とか『平和的な侵略者の膨大な一群』が沿海州の南部に押し寄せてくる……などと指摘しつつ、著者は、朝鮮人移民がポシエット地区から組織的にロシア人を『追い出し』『排除』するという情景を描き出している。それらの朝鮮人は『閉鎖的で』『ロシア人女性と結婚せず』、そして(おお、ひどい!)国境地域を『ソビエト朝鮮』に変えてしまった、というのだ」(強調は原文)。
ベリデニノフは、ロシア人が「国は朝鮮人に甘い」と考えていて、朝鮮人に対して「隠された敵意」を抱いていると述べ、「誰のためにこれらすべての広大な米作農場と巨大な潅漑設備が造られているのか。それには国民の多額の金が費されているのだ」。「米作をロシア人大衆が修得しないうちは、水田面積を増やせばそれは平和的な侵略者ム朝鮮からの米作農民ムの流入を増大させるだけだ」などと書いている。 そしてこの本は「我々がもし、米作の成功が[極東]地方とソ連に実際に利益をもたらすことを望むのならば……我々の巨大な農場と強力な潅漑設備が、おもにロシア人労働者によって建設され、利用されるようにしなければならない」という結論で締めくくられていた。
クルチェーエフは、このような「民族問題における偏向」と徹底的に闘わなければならない、と警鐘を鳴らしている。
「あたかもロシア人が朝鮮人に敵意を抱いているかのような主張は、貧農・中農大衆に対する中傷である。農村のクラーク・富裕農上層部が朝鮮人に好意を持っていないことは我々も否定しないが、それは階級的対立の結果なのである! 著者自身が言っているように、朝鮮人に不満を抱いているのは余分な土地を奪われてしまった人々であり、したがって農民階級全体ではない」(強調は原文)。
クルチェーエフは、日本の帝国主義者と朝鮮の地主に追われ、金も農具も持たず極東にやって来た朝鮮人はプロレタリアートであり、彼らはそこに第二の祖国を見い出している。したがって民族平等を掲げ、全世界のプロレタリアートに一定の責任を負うべきソ連は、朝鮮人移民を受け入れないわけにはいかないと述べている(71)。
確かにソビエトの国家理念からすれば、日本に抑圧された朝鮮人が、労働と安息の場を求めてロシア極東に移住して来るのを拒絶はできないはずであった。しかし現実には、当局の政策は移住を制限する方向へと着実に向かっていた。
(2)移民制限と北方への移住政策
1925年に北京で結ばれた日ソ基本条約は、両国関係を一時的に好転させた。リトヴィノフ外務人民委員は「北京条約の締結以来、1931年末に至るまで、我々と日本とのあいだには最良の友好的関係が存在しており……我々は日本に対して非常に信頼を持って接し、極東の国境をほとんど防衛していなかった」と述べている(72)。しかし朝鮮人の流入に関しては、すでにそれ以前から懸念が表明されていた。
チチェーリン外務人民委員が主宰した同人民委員部の審議会は1926年1月「中国人と朝鮮人のソ連領への流入を阻止するため、あらゆる可能な措置をとる」ことを決定した。審議会は、中国人と朝鮮人の極東への入植を「非常に危険」であると見なし、「まず第一に内陸諸県からの植民を行うことが不可欠」であり、「朝鮮人の移住の調整は別個に問題にしなければならない」としていた。
一方、地元では1929年8月、朝鮮人移民の問題を検討した極東地方執行委員会幹部会が「地方への外国籍朝鮮人の無断流入、および彼らによる土地と国家財産の勝手な占拠との闘いを強化する」ことが必要であるとの決定を下した。それに基づいて、ハンカ湖から豆満江河口に至る国境地帯の警備強化、違法入国した朝鮮人を追放するための合同国家政治保安部の権限拡大、外国籍朝鮮人の北方への移住などの一連の具体策がとられることになった(73)。
極東地方への朝鮮人の移住を制限した最初の措置は、1929年10月18日の規則である。当局は、これによって朝鮮人の入国を親戚訪問、恒常的商業活動、農業移民に限り、またすでに入国している朝鮮人については、その在留資格の合法性を審査することにした。しかしこの規則は30年には適用されなかった。そののち極東地方執行委員会は1931年9月10日、朝鮮人労働者に対し、以後は当局が特別に募集した者のみに入国を許すことを決定した。さらに 12月20日には入国目的を親戚訪問と商業活動に限定し、農業移民を禁止した(74)。
この時期までは、朝鮮人は母国と満州、ソ連を比較的自由に往来していたが、これらの措置によってロシア極東への移住は禁止された。クージンによれば、1932年、外国人の再登録が実施され、その2年後には全住民に国内旅券が発行され、これを機に多くの朝鮮人がソ連国籍を取得した(75)。
このように移住を制限し朝鮮人の帰化を奨励する一方、20年代なかばから、極東南部の土地なしの朝鮮人を強制的に北方へ移住させる政策が検討されはじめていた。
全ロ中央執行委員会は1926年12月6日、朝鮮人への土地分与について特別な方法を定めた。それは、対朝鮮国境からハバロフスク市までの地域で今後朝鮮人移民に土地の分与を禁じ、そこに住む土地なしの朝鮮人をハバロフスク管区(ハバロフスク市以北)等へ移住させ、朝鮮人が占有していた土地にロシア共和国の他地域からの移民を直ちに入植させるというものであった(76)。
1927年2月、極東地方執行委員会幹部会は入植地の決定を極東地方土地管理局に命じ、また極東移民局にはソ連欧州部からの移民をウラジオストク管区に強制的に入植させる計画を立てるよう命じた。調査の結果、入植地としてハバロフスク管区のクル・ダルギ地区とビジャン・ビラ地区、およびアムール管区のウルミ地区が選ばれた(77)。
この移住計画はその後何度か変更され、最終的には8万7759人をハバロフスク管区のクル・ダルギ地区とシンダ地区に移すことになった。1929 年には1229人が移住したが、その後の計画では30年に5000人、31年に約2万人、32年と33年にはそれぞれ3万人前後を移住させるものと決められた(78)。
しかし、1930年12月28日付の極東地方執行委員会幹部会議事録(79) によれば、10月1日現在、「強制的な方法」による者431人を含め、30年に移住したのは1342人にすぎなかった。執行委幹部会はこの移住計画が失敗した原因について、移民局や極東の諸官庁を非難しているが、なかでも「出発地の地区ソビエトおよび経済組織が、執行委の移住に関する諸指令を速やかに理解させるための断固とした措置をとらず……反対にあからさまな抵抗を許し」たからだと指摘している。その結果この抵抗は「旧ウラジオストク管区における大衆的現象となった」。これは、当局の移住政策に対してかなり大規模な反対運動があったことを暗示している。
このような状況を打開するため、執行委幹部会は以下のことを決定した。
出発地のすべての地区執行委員会は、朝鮮人の移住の政治的・経済的重要性と必要性について、またソビエト・経済組織とそれらの指導者およびすべてのソビエト活動分子が、時宜をえて移住計画を完全に遂行する責任を負うことについて、広範な説明を速やかに行うこと。
朝鮮人およびロシア人のソビエト活動家の一部に見られる移住に対する否定的な態度を、速やかに、完全に変えさせること。そのさい、朝鮮人の移住に関する執行委の指令に従わず、実際にそれを遂行しようとしないすべての組織の指導者およびその活動家は、解雇、告訴も厭わない。
移住に反対するクラークの宣伝と断固として闘い、責任者を明らかにし、その責任を厳しく追及すること。
1931年に移住者の出発が予定されている地区では、朝鮮人移住者に対する土地の賃貸を完全に停止すること。それらの地区では、米作、漁労、林業を含むすべての経済組織および協同組合組織に対し、31年に移住することになっている土地なしの朝鮮人農家から、自己の生産現場で朝鮮人労働者を雇用することを厳禁すること。
旧ウラジオストク管区の領域にあるすべての地区執行委員会に対し、土地なしの朝鮮人農家によって組織されたコルホーズに勤労利用のため土地を提供することを直ちに停止し、また古参農民のコルホーズで土地なしの朝鮮人農家を受け入れ、彼らに勤労利用のため土地を提供することを止めるよう命ずる。
[極東]地方国民教育部および「出版事業部《Книжное Дело》」は、シンダ地区、クル・ダルギ地区の住みやすさをわかりやすく説明した朝鮮語パンフレットを早急に発行すること。『先鋒』紙(80) に、すでにこれらの地区に定住した朝鮮人移民の手紙、記事、彼らとの対話を定期的に掲載すること。移住させる[朝鮮人]大衆に対して、移住の対象になっている朝鮮人が古参農民のコルホーズへ入っても、移住義務は免除されないということを広く説明すること。
また、朝鮮人が「解放」した土地にはソ連欧州部からの移民を直ちに入植させること、朝鮮人による新たな定住を防ぐためロシア人移民の入植計画を立てることが命じられていたほか、移住先での土地や住宅の準備、その他の必要な対策が細かく指示されていた。
以上から明らかなように、この移住計画は土地なしの朝鮮人を対象とし、彼らの生活手段を奪うことによって、計画に従うことを強いたものであった。土地なしの朝鮮人農民は、小作や賃労働を禁じられたばかりか、コルホーズを組織しても土地の提供を拒否された。
朝鮮人を移住させたのは、彼らの土地問題を解決するためでもあった。しかし幹部会は、それが「大きな政治的意味」を持っていることを繰り返し強調している。事実「ソビエト政権に完全な忠誠と自らの献身を表明した者」は、この移住から除外された(81)。朝鮮人が立ち退いたあとには、ソ連欧州部からの移民を入植させ、朝鮮人移民の新たな流入を防ぐよう命じていることからもわかるように、朝鮮人の移住は沿海州の土地不足が主要な原因ではなく、むしろ国境沿いの地域をロシア人で堅めるために行われたのであった。
幹部会は移住計画が抵抗にあったことを認めているが、朝鮮人たちが移住を拒んだのは無理もなかった。移住先は農業に適さない寒冷地で、生活環境も劣悪だったのである。朝鮮人の主要な作物である米は、ハバロフスク以北では育たなかった。住宅が不足し、狭い家屋に5、6家族が押し込まれた。また不十分な医療サービスのため、子供の死亡率が上がっていた。このような条件下で移住させられた人々は、自らを流刑囚のように感じていたという(82)。
1927年に開催された第2回極東地方ソビエト大会では、すでに北方への移住問題が朝鮮人代議員によってとりあげられているが、彼らはそこで次のような点を指摘している。
第一に、移住先の環境である。ウラジオストク管区の代議員は、北方に移住して行った朝鮮人がほとんど戻って来ざるをえないのは、与えられた土地が沼地かうっそうたる森で、道もないようなところだからで、移住させる前にその土地が開拓可能かを考慮すべきだと主張している。
第二に、移住後の待遇である。ハバロフスク管区にはウラジオストク管区の朝鮮人だけでなく、ロシア欧州部からの移民もやって来たが、彼らが土地だけでなくクレジットや機械類をも支給されているのに、朝鮮人は何も与えられていなかった。ハバロフスク管区の代議員は、朝鮮人も欧州部からの移民と同じ待遇で扱われるべきだと述べている(83)。
北方への朝鮮人移住政策がうまくいかなかったのは、政策そのものの奥に潜む差別と、条件の悪さが原因だった。しかしこれが失敗すると、今度は強制的手段に訴えることを当局はためらわなかったのである。
(3)朝鮮人民族地区および村ソビエト
1932年初頭の極東地方の民族構成は、ロシア人103万3000人(全人口の58.2%)、ウクライナ人36万5000人(20.6%)、朝鮮人19万人(10.7%)、ベラルーシ人6万人、中国人5万人、ユダヤ人1万3000人、先住民は6万3000人であった(84)。また極東地方執行委員会が実施した少数民族関連の調査によると、35年には極東の朝鮮人人口は20万4000人に達している(85)。
20年代後半から30年代前半、少数民族居住地域における「土着化《коренизация》」政策の一環として、極東でもユダヤ人自治州をはじめ、民族管区、民族地区、民族村ソビエトが多数創設された。これは少数民族を地元の幹部に登用しその能力を利用するとともに、彼らの民族的欲求を満たすことを狙った措置であった。そのためには、少数民族自身の言語によって行政に参加できる環境を整える必要があった(86)。
1927年8月、全ロ中央執行委員会幹部会は極東地方執行委員会に対し、民族行政単位(村ソビエト、地区執行委員会)を朝鮮人に与え、事務作業を朝鮮語に移行すること、また住民が民族的に混合している地区では、ソビエトおよび執行委員会に十分な数の朝鮮人代表を確保することを命じている(87)。ナムによれば翌 28年には、ポシエット地区に「純粋な朝鮮人地区執行委員会」が創設されたことが、ロシア民族問題人民委員部に報告されている(88)。また別の資料でも、「朝鮮人民族地区」としてポシエット地区が挙げられている(89)。
全ロ中央執行委員会が1935年に作成した表によれば、極東地方全体で、上記の朝鮮人地区のほか、ロシア人、中国人との混合地区が28あった。朝鮮人地区では住民の90%を朝鮮人が占めていたが、混合地区ではロシア人が多数派で、そのほかは中国人と先住民である。村ソビエトは、朝鮮人のみのものが 152、ロシア人、中国人との混合ソビエトが100あった(90)。
ポシエット地区では、26年にはすでに業務の一部が朝鮮語によって行われていた。アノーソフは、この「経験は肯定的な結果を生んだ。それというのも、朝鮮人農民は地区執行委員会で、自分の必要や緊急の問題について、今は自分の母語で、通訳の助けを借りずに書くことができるからである。また村ソビエトの職員も、上級機関の指示と命令を母語で受け取るので、それらをよりよく実行するようになった」と述べている(91)。
以下の表は、ウラジオストク管区の各地区執行委員会に占める朝鮮人の数を示したものであるが、ここから、執行委員会の「朝鮮化」が、少なくとも数字のうえでは徐々に進んでいく様子がうかがえる。
ウラジオストク管区における地区執行委員会の構成(92)
a : 地区住民全体に占める朝鮮人の割合(%) b : 地区執行委員会委員の数
c : うち朝鮮人の数 d : 朝鮮人が執行委に占める割合(%)
しかし1931年2月に開かれた極東地方党委員会・統制委員会合同総会は、民族問題に関する決議のなかで、ソビエト機構を土着化するという党の指令が守られず、その実行が遅れていると指摘し、その例としてポシエット地区を挙げている(93)。
そのほかの地区では、朝鮮人職員はさらに不足していた。1930年、ウラジオストク管区執行委員会は14の地区執行委員会と四つの市ソビエトに対し、少数民族のあいだの活動について報告するように求めたが、回答があったのは三つの地区執行委と二つの市ソビエトのみであった。しかもそれらの回答によれば、たとえばミハイロフカ地区では「朝鮮人職員がいないので、朝鮮人住民に対する特別な活動は行われなかったし、[現在も]行われていない」という状況であった。また各地区の執行委員会の朝鮮人事務員はむしろ減少しており、朝鮮人村ソビエトは朝鮮語で業務を行うことができずにいた(94)。
ウラジオストク管区の民族ソビエトおよび民族地区執行委員会に関する活動状況報告のなかでも、同様の問題点が指摘されている。それによれば、朝鮮人民族ソビエトおよび執行委員会における活動は「朝鮮人住民の文化的レベルの低さ、散村的生活形態、また村や地区中央における熟練したソビエト活動家の不足」のため、管区全体から遅れをとっていた。また、朝鮮人の代表は管区執行委員会に3人、地区執行委員会に45人、市ソビエトに51人、村ソビエトに78 人いたが、実際の活動への彼らの参加度は低かった。また市ソビエトは朝鮮人や中国人の取り込みをはかったが、彼らはロシア語を知らないことを理由に、しばらくすると会議に顔を出さなくなった(95)。
極東の朝鮮人居住地域における「土着化」は、表面的にはそれなりに進んだものの、しばしば実態を伴わないものであったとみられる。ポシエット地区以外では、地区執行委員会はおろか朝鮮人と名のつく村ソビエトにおいてさえ、朝鮮語はあまり使われておらず、朝鮮人の幹部への実質的な登用は困難であった。
4. 強制移住
(1)1930年代の国内・国際情勢
ソ連の30年代は、まさに追放の時代として幕を開けた。その最初の犠牲者は、「クラーク」の烙印を押された人々であった。彼らはロシア北部、シベリア、ウラル、カザフスタンなどへ移住させられ、移動の自由を奪われていた。その数は、強制収容所や監獄に入れられていた者を除いても、1932年1月には140万にのぼっていたという(96)。
一つの民族全体に対敵協力の罪をきせ、まるごと追放した初期のケースとして、朝鮮人の強制移住はのちのちの「見本」となったに違いない。なぜなら、第二次大戦期には多くの民族が朝鮮人と同様の運命をたどったからである。40年代、「国家的作戦に従って」強制的に移住させられた人々は301万 1108人、「自発的に」移住した人も含めると、その数は322万6340人に達した。それらの民族としては、チェチェン人、イングーシ人、カラチャイ人、バルカル人、カルムイク人、クリミア・タタール人、ギリシャ人、ドイツ人、メスヘチア・トルコ人、クルド人のほか、エストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人などが知られている(97)。
しかし、このような悲劇を体験したのは少数民族だけではなかった。1920年春、おもにロシア人からなる北カフカスのコサックは、ソビエト政権に抵抗したため土地を取り上げられ、強制移住させられている。またそのほかにも20年代には「諸民族の発展を妨げる」という理由で、中央アジアや北カフカスからロシア人が追放された(98)。また、第二次大戦期に国境地域から「危険分子」として追放された人々のなかにも、ロシア人が含まれていた(99)。
さまざまな口実を用いて、早くは20年代にはじまった追放措置は、30~40年代には国内のいたるところで行われていた。体制側にとっては朝鮮人の強制移住も、そのような多くの強制移住の一つにすぎなかったのである。
また30年代は大粛清の時代でもあった。朝鮮人も例外ではなく、ソ連全土で数多くの党員、非党員が犠牲になっている。極東における弾圧の典型的な例は、アファナーシー・キムの逮捕であろう。彼はポシエット地区の党委員会書記および機械トラクター・ステーション政治部長を務めた熱心な活動家であったが、36年秋、内務人民委員部によって逮捕され、1938年に銃殺刑を宣告された。彼の罪は「29年以来日本の諜報員であり、関東軍参謀の命により反ソ暴動を準備した極東地方朝鮮人蜂起センターの指導者、組織者の一人であった」ことにあった(100)。
対外関係に目を向ければ、30年代は日本が積極的な大陸侵略に乗り出し、日ソ関係が極めて緊張した時期である。1931年9月、柳条湖事件勃発とともに関東軍は満州を占領、引き続き32年3月には、極東地方と長い国境を接する「満州国」が樹立された。
1935年3月、日ソ間で中東鉄道売却協定が締結され、ソ連はその全線を満州国に譲渡・売却し譲歩の姿勢を見せたが、36年に組閣した広田内閣は「帝国国防指針」を改訂、膨大な軍備拡張計画を立て、そのなかで米国と並びソ連を主要仮想敵国とした。それからまもなく日独防共協定が締結され、37年7月には蘆溝橋において日本軍が中国軍に攻撃を開始、日本は中国との全面戦争に突入した。
極東地方に住む全朝鮮人の追放という悲劇は、まさにこのような緊張のさなかに起こった。また1938年7月には張鼓峰事件が勃発、極東における日ソの軍事衝突は現実化し、翌年、日ソ関係はさらにノモンハン事件へと悪化していったのである。
(2)国境地域からの移住-8月21日の党・政府決定
1937年8月21日、政府・党中央委員会の極秘決定により、国境地域からの朝鮮人追放が命じられた。以下はその全文である。
ソ連人民委員会議・全連邦共産党中央委員会決定第1428-326号 極秘
1937年8月21日
極東地方国境地区の朝鮮人住民の移住について
ソ連人民委員会議および全連邦共産党中央委員会は決定する。
極東地方への日本のスパイ活動の浸透を阻止するため、以下の措置をとること。
全連邦共産党極東地方委員会、極東地方執行委員会および内務人民委員部極東地方管理局に対し、極東地方の国境地区、すなわちポシエット、モロトフ、グロデコヴォ、ハンカ、ホロリ、チェルニゴフカ、スパッスク、シュマコフ、ポストゥイシェフ、ビキン、ヴャゼムスキー、ハバロフスク、スイフン、キーロフスキー、カリーニン、ラゾ、スヴォボードヌィ、ブラゴヴェシチェンスク、タムボフカ、ミハイロフカ、アルハラ、スターリン、ブリュッヘロヴォ各地区の朝鮮人住民すべてを、[カザフ・ソビエト社会主義共和国の]南カザフスタン州、アラル海とバルハシュ[湖周辺]地区、およびウズベク・ソビエト社会主義共和国へ移住させることを命ずる。 移住は、ポシエット地区およびグロデコヴォに隣接する諸地区から開始すること。
直ちに移住に着手し、1938年1月1日までに完了すること。
移住を要する朝鮮人には、移住のさいに財産、家財道具および家禽の携行を許可すること。
移住させられる者には、彼らの残した動産、不動産および播種地に相当する金額を補償すること。
移住させられる朝鮮人が希望により国外へ出ようとする場合は、簡略化した国境通過手続きを容認し、出国を妨害しないこと。
ソ連内務人民委員部は、移住のさい朝鮮人側から起こりうる違法行為および騒動に対処する措置をとること。
カザフ・ソビエト社会主義共和国およびウズベク・ソビエト社会主義共和国の人民委員会議に対し、直ちに受け入れ定住地区・地点を決定し、移住者が新しい場所で生活に順応することができるよう対策を立て、必要な援助を行うよう命ずる。
交通人民委員部に対し、極東地方執行委員会の申請に応じて、極東地方からカザフ・ソビエト社会主義共和国およびウズベク・ソビエト社会主義共和国へ移住させる朝鮮人とその財産を運搬するため、車両を適時配車するよう命ずる。
全連邦共産党極東地方委員会および極東地方執行委員会に対し、移住を要する世帯数と人数を3日以内に報告するよう命ずる。
移住の進行状況、移住実施地区から送り出された人数、居住地区に到着した人数、および出国した者の人数を、10日ごとに電報で報告すること。
朝鮮人の移住が実施されている地区の国境警備を強化するため、国境警備隊の兵力を3000名増員すること。
ソ連内務人民委員部に対し、朝鮮人が明け渡した住居に国境警備兵を住まわせることを許可する。
ソ連人民委員会議議長・モロトフ
全連邦共産党中央委員会書記・スターリン(101)
この決定による移住は、二回に分けて行われた。第一波の移住は9月9日から23日にかけてポシエット地区などから(102)、第二波の移住は9月24日から10月3日のあいだに行われた。この結果、移住開始から10月3日までに、約7万8000人が追放された(103)。
9月3日に作成された第一波の列車運行予定表によれば、各列車には朝鮮人を乗せるための有蓋車、貨物用の有蓋車、および無蓋車のほか、客車、衛生車、炊事車が1両づつあった。移住者用の有蓋車は、1列車あたり50~60両のものが大半を占めていた(104)。朝鮮師範大学の教員や学生、朝鮮劇場の劇団員など、一部の朝鮮人は客車で移動したが、彼らはまとまって同じ列車に乗ったと証言しているから(105)、客車には朝鮮人を監視するために同乗した監督司令官や民警が乗っていたと考えるのが妥当であろう(106)。
一つの列車で運ばれた人数は、1000人以下のこともあれば2000人を超える場合もあったが、その多くは1400~1600人であった。また一車両には平均して26~30人、5~7家族が乗せられていた(107)。
この決定では、移住は38年1月1日までに終了するとされているが、実際にははるかに急いで強行された。エジョフ内務人民委員とリュシコフ内務人民委員部極東管理局長とのあいだでは、移住に要する期間についてやりとりがあった。エジョフは8月27日、リュシコフに電報で「朝鮮人の移住作戦は10月前半に終了することが望ましい」と述べ、この期間内にできるだろうか、と尋ねている。
これに対しリュシコフは翌28日、当初は2カ月間、すなわち11月1日までに実行する計画であったと述べているが、この電報を受けて、1カ月半以内に、またポシエット地区およびグロデコヴォ地区近辺からは1カ月以内に行うと回答している(108)。実際ここで言われているとおり、国境地域からの移住は10月上旬に終了している。
第4項で言及されている補償は、実際にはきちんと行われなかった。「極東地方の国家機関に供出された資産、播種地、家畜に対する朝鮮人移住者への負債に関する資料」によれば、接収したコルホーズおよび個人の財産に対する支払いは、極東ではほとんどなされていない。未払分については、移住先で清算するための債権や引換証が発行され、あるいは現地で現物支給することが決められたが、これらは部分的にしか償却されなかった(109)。また地区執行委員会が、朝鮮人が残した財産の売却によって得られた金を着服するケースさえ見られた(110)。
ソ連人民委員会議は9月8日、公的機関の職員あるいは企業の労働者として働いていた朝鮮人移住者に対し、2週間分の「退職手当」と、移住の最中には家族全員に一人あたり5ルーブルの「日当」を支払うことを決めている。しかし最近行われたアンケート調査によれば、この「日当」を受け取る権利があることを知っていたのは、全体の1%にすぎなかった(111)。
第5項では朝鮮人の国外出国を妨害しないと述べられているが、赤軍、内務人民委員部、軍需産業の関係者には、この項目は適用されないことになっていた(112)。また実際には、第11項の内容から推察されるように、一般の朝鮮人のなかでも、国外脱出によって強制移住を逃れた者はほとんどいなかった(113)。
内務人民委員部は「秩序維持」に非常な注意を払っている。エジョフはリュシコフに、朝鮮人が「自分勝手に個々人あるいは集団で極東地方のほかの地区へ行く可能性を排除する措置」をとり、集合地点および乗車地点に「内務人民委員部と民警の作戦要員を配置」し、また「各列車に監督司令官を置き、列車内の秩序維持のため民警の一団を配置」すること、移動中に「朝鮮人の合流と列車からの脱落を防止する措置」をとることを命じた(114)。
エジョフの「日本のスパイ」に対する疑惑の念は極めて強い。彼の命令によって「反ソ的行動をとり、スパイとして外国と関係を持っている疑いのある朝鮮人」を逮捕することが決められた(115)。奇異にさえ感じるが、エジョフは朝鮮人を中央アジアに追いやったあともなお「日本人が中東諸国を通じて、朝鮮人の新たな居住地区において彼らと関係を持とうとする可能性を考慮し」、アルマアタとタシュケントの内務人民委員部に諜報活動を強化するよう命じている(116)。
(3)全極東地方からの移住-9月28日の政府決定
8月21日の党・政府決定が出されてから約1ヵ月後、今度は極東地方全域を対象とした移住命令が出された。以下はその抜粋である。
ソ連人民委員会議決定第1647-377号 極秘
1937年9月28日 モスクワ、クレムリン
極東地方からの朝鮮人の移住について
ソ連人民委員会議は[以下のことを]決定する。
極東地方の全領域から、残っているすべての朝鮮人を移住させる。移住は1937年10月中に、第一波の移住のさい定められた方式に従って行う。
第一波と同様に、すなわちカザフ・ソビエト社会主義共和国(アクチュビンスク州、西カザフスタン州、カラガンダ州、南カザフスタン州およびグリエフ管区)に1万2000世帯、ウズベク・ソビエト社会主義共和国(鉄道以北)に9000世帯移住させる。
ソ連人民委員会議の予備フォンドから、極東地方執行委員会、カザフ・ソビエト社会主義共和国およびウズベク・ソビエト社会主義共和国人民委員会議に、1937年9月1日付ソ連人民委員会議決定第1571-356号(極秘)によって承認された支払いを追加の2万1000世帯に対して行うための資金を、またカザフ・ソビエト社会主義共和国およびウズベク・ソビエト社会主義共和国人民委員会議の申請に応じて、建設資材を供与する。
[第4項~第6項は省略]
ソ連人民委員会議議長・モロトフ
ソ連人民委員会議総務部長・ペトゥルニチェフ(117)
この決定によって、第一・二波に引き続き、第三波の移住が実施された。上記の2万1000世帯のうち、10月3日から14日にかけて、4万 4977人、9284世帯が移住させられた(118)。後述するように、移住が終了するのは10月25日であるから、この移住は25日まで続いたと考えられる。
興味深いのは、上記の決定がなされる前に、チェルヌィシェフ内務人民委員代理がエジョフへ、エジョフがスターリンへそれぞれあてた文書の内容である。双方とも、国境地域からの移住に引き続き、極東地方に残っているすべての朝鮮人を移住させるよう提案している。
チェルヌィシェフは9月22日、国境地域の朝鮮人の移住後、残りの朝鮮人をそのままにしておくことは「朝鮮人はみな親族のつながりが極めて強いため」危険であると訴えている。「極東地方における朝鮮人の居住地域が残りの地区に限定されていることは、彼らの精神状態にまちがいなく影響を及ぼし、これらの集団は日本の活動にとって好都合な土壌となるだろう」。なかでもチェルヌィシェフは、沿海州の海沿いの漁業を営む地区が「日本の諜報活動の最重要拠点となっている」とみていた。
一方エジョフがスターリンにあてたものは、日付がはっきりしないが、文面からみて9月21日から23日のあいだに書かれたとみられる。内容はチェルヌィシェフのものとほぼ同じで、ウラジオストク、シュコトヴォ、スーチャン、オリガ、ソフガヴァニ各地区の朝鮮人が「日本の諜報活動要員となっているのは疑いない」ため、極東に残る朝鮮人を放置しておくことは、不適切かつ危険だと述べている(119)。9月28日の決定が出された背景には、このような内務人民委員部の判断があった。
はじめの決定が出されてから2カ月あまりたった37年10月29日、エジョフはスターリンとモロトフに移住終了を報告した。
「1937年10月25日、極東地方からの全朝鮮人の移住は完了した。全部で3万6442世帯、17万1781名の朝鮮人を、124の列車で移住させた。極東地方に残ったのは全部で700名以下(カムチャッカとオホーツクの特別移住者)で、彼らは今年11月1日までに列車でまとめて移送される。 1万6272世帯、7万6525名の朝鮮人がウズベク・ソビエト社会主義共和国へ、2万170世帯、9万5256名がカザフ・ソビエト社会主義共和国へ割り振られ、移送された。 到着し、現地で[朝鮮人を]降ろしたのが76列車、走行中が48列車である」(120)。
ここでいう特別移住者とは、以前沿海州からクラークとして追放された人々のことを指している。
当初は、移住させるべき朝鮮人は国境地域の住民に限られていた。しかも年末までに終える計画であったことを考えると、朝鮮人の移住作戦は非常な「成功」を収めたといえよう。
(4)朝鮮人の反応
このような移住措置に、朝鮮人はどう反応したのだろうか。武装蜂起などの大がかりな抵抗運動はなかったが、それをするには強制移住の命令があまりにも唐突だったのかもしれない。しかし以下の資料は、少なくとも朝鮮人がこの無謀な仕打ちに従順に従ったのではないことを物語っている。
移住直前の状況を知るうえで非常に貴重なのは、ソコロフ内務人民委員部極東地方赤旗勲章国境軍管区部隊長による「ウスリー州朝鮮人移住対象地区の住民の政治的傾向」に関する報告である(121)。この報告には、朝鮮人の怒り、不安、戸惑いが如実に記されている。
第一波の移住対象地区では9月1日以降、朝鮮人に対する説明が行われた。ソコロフは「朝鮮人住民の大多数は、ソビエト政権と党のこの措置を正しく理解し、それに対して満足のいく対応を見せた」と報告している。しかしその一方で、「説明が不十分だったため、多数のコルホーズ員が移住に関連した多くの問題を理解していない」とも指摘している。
なかには、政府が決定したのなら従わなければならない、朝鮮人を国境から遠くに移住させるのはいいことだ、と述べる者や、「向こうではおそらく我々のために朝鮮人自治州が作られるだろう」とか、「ロシア人は米を作れないから、我々を呼び戻さざるをえなくなるだろう」などと事態を楽観視する者もいた。
しかし当然のことながら、移住政策を批判する者もいた。「我々朝鮮人党員を党は信用していない」「私の顔の色が違うというだけの理由で、私を追放するのか」という発言には、信じてきた党の裏切り、民族差別への怒りが感じられる。
ある党員候補は、内務人民委員部が朝鮮人を弾圧するのは、朝鮮人一人ひとりをみなスパイと見なしているからで「内部人民委員部の機関が、そのうち全員を逮捕してしまうだろう」と考えていた。また、ソビエト政権は朝鮮人が日本人のほうへ乗りかえるのを恐れている、政府は朝鮮人を皆殺しにしたかったが、そうすることもできないので、途中でみんな死んでしまうだろうと計算して移住をはじめることにしたのだ、と述べる者もいた。
次の発言には、追放措置の理解に苦しむ朝鮮人の姿がうかがえる。「私は一晩中移住のことを考えていた。レーニン全集を手にとって、民族問題に関する論文をつぶさに読んだが、そんな話はどこにもなかった。もしロシア語ができたなら、新聞に投書して、私を投獄するかしないか確かめられるんだが」。また決定の信憑性について疑念を抱き「スターリン同志が我々を移住させろなどと言ったはずはない」と考える者もいた。
「私はカザフスタンにつてがあるから知っているが、極東の人間にはカザフスタンの気候は耐えられない。もし移住させられたら、みんなきっと死んでしまう」という軍人アンドレイ・パクの発言は、朝鮮人たちの不安をさらにつのらせたに違いない。肺結核を患うリ・サンスンはコルホーズの集会後、移住させられるよりは射殺される方がましだ、向こうは気候も悪いから肺病持ちの自分は行かないと言った。
このほかにも似たような、非常に投げやりな発言が見受けられる。「やりたいようにやらせればいい、移住させたければするがいい、私はピストルで自殺する」。「移住に関する決定は正しくない。移住のための時間はあまり与えられていないし、金もない。我々をつれて行って放り出すのだ。軍人に集められて撃ち殺されたほうがいっそましだ。どっちにしろ我々は死ぬのだから」。
秋の収穫を前に、自分たちが汗水たらして育てたものを置き去りにしなければならないのは、やりきれない思いがしたことだろう。ある朝鮮人党員は、今年はいい収穫を得たがそれを手にすることはできない、これでは犬に食わせるも同然だ、と憤慨した。また「沿海州のパルチザン」コルホーズ議長は、どうせ移住させられるのだから「家畜をつぶして食ってしまわなければならない」と述べた。また、ほかの朝鮮人コルホーズ員たちはこう嘆いている。「いつも我々は飢えていた。今はなんでも事足りるようになって暮しもよくなったのに、我々はどこかに追い立てられまた飢えることになるんだ」。
8月の決定では希望者の出国は妨害しないとされていたが、朝鮮人たちはこれをどのように受け止めていたのだろうか。ハンカ地区の住民たちの考えは「出て行って日本人と一緒に暮らすなどどいう愚か者は今いない」というものであった。スイフン地区の「太平洋の革命家」コルホーズでは、ある朝鮮人が国外脱出しようとほかの朝鮮人を誘ったが、ついて行く者はいなかった。
スパッスク地区では、多くの人々が「我々はもう長いことソ連に住んでいる。満州よりここのほうがいい」と考えていた。たとえカザフスタンであろうと、朝鮮へ行くよりはいい、と言う者もいた。また同地区の住民の一人は国外脱出を希望していたが、それを諦めた。なぜなら彼に向かって多くの人が「日本人がおまえを締め殺してしまうぞ」と言ったからである。一方、スパッスク地区コンスタンチノフカ村では、4人のコルホーズ員が、自分たちは身寄りがなく、親戚が満州にいるという理由で、出国願を提出した。
これらの発言は、朝鮮人全体の気持ちを反映しているとは必ずしもいえないので、判断には慎重を要する。またソコロフは、日本領事館に日本への出国許可を求める申請を出すよう宣伝した朝鮮人がいたとも述べている(122)。しかし、朝鮮や満州が日本の占領下にある以上、国外脱出はソ連の朝鮮人にとってよりよい選択とはいえなかっただろう。越境を妨げた原因は、当局側の管視と、対策を練る間もないほどの突然性、そしてこのような朝鮮人自身の消極性にあった。
モロトフ地区では、ロシア人と朝鮮人からなる「警報」コルホーズと「突撃作業員」コルホーズで、両民族間の争いが生じた。とりわけ「突撃作業員」コルホーズは37年に朝鮮人コルホーズとロシア人コルホーズが合併してつくられたばかりだったが、移住する朝鮮人に、コルホーズの不可分フォンドの一部を持って行く権利を与えるか否かという問題が持ち上がったのである。朝鮮人は自分たちが持ち込んだフォンドを残していくのは腑に落ちないとして「我々は組織されたコルホーズとして、すべてのフォンドを持って移住することを望む」と主張した。
またソコロフは同じく、第三波の移住についても報告を行っている(123)。この時期には、すでにこれまでの移住の様子がある程度伝わっており、暗澹たる噂が後から行く者の不安を煽っていた。「カザフスタンに行くまでに朝鮮人を乗せた車両がいくつか転覆して、たくさんの人が死んだ。これもみんな朝鮮人のことは考えもせず、同情もしないからだ。ソ連政府の政策はこんなものなのだ」。
また、移住先で子供や老人を苦しめていた病魔の話も、極東に届いていた。8月の移住命令が出される数日前にカザフスタンからやって来たアナトーリー・キムは「カザフスタンでは飢餓とマラリアが猛威をふるっており、住む家もない。移住させられた者はみな死ぬしかない」という「反革命的噂」を広めた。またオリガ地区では、これと同じような噂が広まっていたが、それに影響されて逃亡を試みる者が現れ、10月5日にはイマン川上流のタイガへ脱走しようとした朝鮮人4名が逮捕されている。
民族差別に対する怒りは、一層激しくなっていた。「ソビエト政権は朝鮮人を犬以下だと思っている。朝鮮人にとってスターリンの政策は機関銃や大砲の弾よりも恐ろしい」。「朝鮮人は極東地方でほか[の民族]と同じように暮らすことができるのに、我々は尊重されず、少数民族として好き勝手なところに放り出されるのだ」。また「朝鮮人全員がスパイや破壊分子であるわけではない。ソビエト政権に献身的な人たちもいる。だから移住においても個人的な対応が必要だった」と述べる者もいた。
そして国家への憤怒は、ロシア人への反発につながっていった。「ソビエト政権は[民族間の]権利は平等だと言っているが、実際にはそんなものはありはしない。ロシア人が命令し、朝鮮人は従うしかない」。「我々の後にはロシア人が住むようになるんだ。あいつらに何も残してやるものか。何もかもたたき壊してしまえ」。「我々はロシア人を嫌悪する。はっきりいって、我々はテントのなかで死ぬために移住させられるのだ」。
行動で抵抗の意志を示した人々もいた。オリガ地区の住民パクは、老齢を理由に地区から出ることを断固として拒んだ。同地区では、多くの老人が同じような意志表示をした。自分たちにとって「移住は死に等しい、移動に耐えられない」というのがその理由である。このような移住拒否を防ぐため、地区3人委員会(124) に対し「全朝鮮人の移住の実現を可能にするよう」指令が出された。
立ち去って行く朝鮮人たちの作物は安く買いたたかれた。そのため、リ・チャンスは「盗みのようなまねは絶対に許さない。こんな値段で野菜を売る必要はない」として、自分たちの収穫を調達機関に売らないようほかの朝鮮人を「扇動」した。 この報告で言及された朝鮮人たちの多くは、逮捕されるか、移住先にその言動が報告された。
おわりに
極東におけるソビエト政権の樹立は、日本の植民地支配による祖国の貧窮に苦しむ人々をロシアに引き付けた。しかしこの新天地でも、朝鮮人は社会の底辺に組み込まれていた。そのような状況を打破するためには国籍の付与と土地の分与が不可欠であったが、そのどちらも20年代には解決されなかった。この背景には、朝鮮人移民の絶え間ない流入だけでなく、朝鮮人の帰化に対する当局の消極的な姿勢があった。
ソ連全土を襲った全面的農業集団化の嵐は極東にも及び、朝鮮人貧農の隷属的状態を向上させたが、それと同時に朝鮮人もまた、コルホーズ加入の強制やクラーク清算など、ほかの民族と同様の多くの苦難を味わった。しかし集団化においてより深刻だったのは、地元のソビエト機関や経済機関、およびロシア人農民の側からの差別であった。朝鮮人たちは断固としてこれと闘い、中央の圧力を受けた極東の党組織も差別撤廃のキャンペーンを繰り広げた。朝鮮人に対する民族差別の解決は、極東において政治的・経済的に重要な意味を持っていたのである。
ソビエト政権は多くの、しかも外国籍の朝鮮人が国境地域に住むことは、安全保障の観点から見て好ましくないと常に考えていた。20年代末、土地なしの朝鮮人を極東北部へ移住させ、そのあとにロシア人移民を入植させる計画も立てられていたが、この試みは強制的手段がとられたにもかかわらず成功しなかった。
1937年の強制移住には、極東における日本との軍事的緊張が色濃く影響しているが、その根底には、終始消えることのなかった朝鮮人に対する不信感が存在している。極東地方の国境地域から、もはやソ連国民となった彼らを追放したのも、さらに極東全域から朝鮮人を一掃したのも、そのような疑惑の念が危機的な時期に一気に表出したためであった。
朝鮮人たちは、自分たちに対する差別に怒り、不安に駆られ、あるいは虚無状態に陥ったまま、中央アジアへ貨物列車で移送されていった。ウズベキスタンとカザフスタンに移住させられた朝鮮人の一部は、さらにキルギスタンとロシアのヴォルゴグラード州アストラハン管区に送られた(125)。また37年以後、極東以外のロシア各地に住む朝鮮人に対しても強制的な移住措置が適用され、45年末までにはほぼすべての朝鮮人が中央アジアに送られた(126)。
いうまでもなく、ソ連の朝鮮人の歴史はこのような悲劇だけに彩られているわけではない。強制移住後の時代は本稿の対象外であるが、彼らが幾多の困難を乗り越え、中央アジアでも最も成功した民族の一つに数えられていることは、指摘しておく必要があるだろう。
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