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세계사

일본군 시베리아 침략사

by 8866 2008. 11. 16.

 

일본군 시베리아 침략


シベリア出兵の開始

 

 


1918年に入り、欧州戦線はロシアの離脱により予断を許さないものになって行った。英仏は東部戦線の維持が至上命令だったから、いかなる形でも日本の介入は多いに期待された。またボルシェビキ政権に干渉する意味で、南部のバクーと北部のアルハンゲリスクの両方に派兵を決定した。

それでも日本は躊躇した。最大の理由はアメリカが反対したことだ。当時の首相は寺内正毅だが長州閥に属した。この頃は山縣有朋が存命中で陸軍は田中参謀次長以下長閥が圧倒的だった。このため内閣・陸軍の一致は簡単だが、海軍の大御所山本権兵衛は日米協調路線で譲らなかった。この見解は石井菊次郎らの外務官僚にも支持されていた。この親米路線は犬養、幣原らに受け継がれて行く。最も親英仏派の西園寺公望らも一方の主流を占めていたから、むしろ非戦派とそれ以外の対立かもしれない。

ところがこのアメリカの反対論が極めて理解しにくいものだった。今日ではボルシェビキ政権の評価をめぐって生じたとはっきりしているが、当時の陸軍には理解できないものだった。もっと言えば陸軍はアメリカ建国の理念が理解できなかったのだろう。

とくにイギリスはこの時、干渉をコミットしておりかつ香港に駐留部隊を保有していたからとりあえずウラジオストックにあった軍事資材を確保することを提案し巡洋艦サフォークをウラジオストックに派遣した。海軍はイギリスの要請を受け入れ1918年1月陸戦隊とともに旧式戦艦2隻をウラジオストックに派遣した。

チェリヤビンスク事件

日本がこの形勢への対応で迷っているうちに、5月チェコ軍団がシベリア鉄道沿線のチェリヤビンスクで反乱を起こした。直接にはハンガリー人との争闘がきっかけだった。チェコ軍団はこの時、約4個旅団4.5万人で装備は小火器に限られていた。フランスは、ボルシェビキとの間で日本経由西部戦線に派遣する目的で、キエフに集結していたチェコ軍団の東への回送を合意していた。前年12月パリにあったベネシュ・チェコ臨時政府との協定に基づくものだった。

 


チェコ軍団は帝政ロシア軍の手でそれまで東部戦線の南西軍に配置されておりオーストリア軍と対峙していた。3月のブレストリトウスク条約締結により、フランスは督軍武官を直ちに派遣し実質はフランスの指揮下にあった。ただし10数名にすぎない。争闘自体はハンガリー人またはドイツ人捕虜の西送と、かち合ったものだ。チェコ兵はブルシロフの傘下にあって1916年のブルシロフ攻勢の際、突撃隊としてオーストリア兵を大量に捕虜としており遺恨の間柄だった。

この時、ウラル以東は無政府状態で都市にソビエトが活動家数十名単位で結成され統治に当たっていた。ただ大部分は帝政時代の小官吏または雇員だった。シベリア鉄道自体は旧労組がそのままソビエトとなり各地鉄道管理局のもと細々と運営されていた。だがザバイカル以東はセミョーノフ率いる白軍が散発的に攻勢に出ており、時折不通の状態になっていた。フランス督軍武官がプリアムールを避け、日本に満州里・大連(東支線・南満線)経由の輸送を依頼した矢先の出来事だった。、

チェコ軍団はシベリア鉄道に沿ってサマラからイルクーツクを瞬く間に占拠した。ボルシェビキ(トロツキー)はチェコ軍団の武装解除を要求したが、受け入れず連合国はあたかもチェコ軍団が東部戦線復活の切り札となるように錯覚した。

とくにイギリスは干渉戦争の主役として当初から期待した節がある。反面フランスはあくまで自軍の西部戦線での兵力欠乏を補うとした。だが実際のところチェコ軍団への補給は日本からしか可能でなく全世界の目は日本に集まった。

この時陸軍参謀本部でチェコという地名を知っている者はいなかった。これは唐突に聞こえるが、もちろん地名のベーメン・メーレン(ボヘミア・モラビア)は知っていたのだ。ただそこにいる西スラブ族が独立する可能性があるとみなかったのだ。チェコはそのプロテスタント貴族が1620年ビーラ・ホラ(白山)の戦いでハプスブルグ家に敗れて以来、独立を失っていた。300年間独立を失い、その後独立を叫んでもなかなか相手にはされない。

ところが相手にされた。チェコ独立主義者マサリクは渡米、ウィルソンに歓迎された。ウィルソンからみれば、その理念の民族自決を体現しているかに見えたのだ。他の地域は別にしてチェコを失うことはオーストリア=ハンガリー二重帝国の一体性にとり致命的だった。この問題の重要性は最終的には植民地の否認に向かうことにより示される。なぜならば、植民地や保護国の存在はは安全保障を自前でやる事が不可能なため連合するまたは大国の保護に入るという側面が存在する。ところがアメリカは民族自決=チェコの独立を保障することにより、この側面を否定した。それまでオーストリアの解体は連邦制に向かうことで合意ができていたが、これは明らかな変更だった。このウィルソンの決断は第2次大戦の導火線となり、戦後の独立ブームにつながり現在の世界を形づくった。

陸軍の荒木貞夫はシベリア出兵の失敗は満州・台湾・朝鮮の喪失につながると予言した。別の意味で日本の植民地の喪失はチェリヤビンスクで始まったのかもしれない。

チャーチルは第2次大戦後になってもまだハプスブルグ帝国の分割を許すことができなかった。そして『第2次大戦回顧録』に次ぎの言葉を残し呪った。
「ハプスブルグ帝国を構成した民族や地域はすべて、独立を獲得したことによって、古代の詩人と神学者が地獄に落ちたものの運命とした苦痛を味わうことになった。」

この運命をチェコやその他の東ヨーロッパ諸国は1992年まで味わねばならなかった。だがもちろん独立とはそういった事を含んでも価値があるのかもしれない。

そして日米がこういった形で対立すると論争を避けることはやはり至難だっただろう。そして論争の性格上日本が植民地主義に固執して勝ち目のあるものではない。戦間期の日本の指導者は植民地を喪失するとすれば独立主義者かそれと結託した共産主義者によって強制されると予想した。だが事実はウィルソンの理想主義によって崩壊させられた。

日本軍の派兵の決定

これまでも英仏から東部戦線または西部戦線への派兵を要求されていた。ただ陸軍という組織は非常に国内・周辺的だったから連合国の言う大義については当初から理解を示さなかった。

シベリア派兵でも英仏が要請した目的は2点あり、東部戦線の維持と干渉戦争にあった。東部戦線の維持とはそこに貼りつくドイツ50個師団を釘付けにする目的だ。また干渉戦争とはボルシェビキ政権を打倒し再度連合国にたって戦う政府の樹立を目指した。後者はイギリスとくにチャーチルが主導したものでイデオロギー的なものも含まれていた。但しロイドジョージは疑問だったようだ。

ところがアメリカのウィルソンはボルシェビキ政権を説得により自陣営に組み入れる事が可能とみていた。これを理由として日本軍の派遣に反対していた。ウィルソンとしては友邦とみなした日本と共同出兵を行い、英仏を牽制したかった。

6月18日駐米大使石井菊次郎はウィルソンに面会したところ次の返事があった。

「米国の(日米のシベリア出兵の)躊躇は専ら出兵がロシア国民の感情を害せんことを虞るるゆえにして日本の心事を疑うが如きことは全然これなく、世上往々わが態度を決定せざるを、かかる猜疑心に帰するものあるは見当違いの甚だしきものたることを今ここに断言する。」

「世上往々…」からは石井の本国向けのメッセージだろう。ウィルソンの発言を疑う理由はない。またこのようなことで嘘をつく人物ではない。日本ではこのようなアメリカ人の主張にたいして裏がある、という説明がよくなされる。実際には理想主義が理解できないだけだ。ただ歴史では日本側の主張、ボルシェビキと和解に達することは不可能という見方が正しかったようだ。

陸軍もウィルソンの理想主義がわからない。直ちに目的を3点に絞った。

沿海州(ウスーリ)を中心とする白色政権による保護国の樹立
経済的利権の獲得
戦後における発言権の向上
保護国というのは植民地類似だからこれではウィルソンの言う「心事を疑うが如き」に該当する。ただ現在からこれを批判するのは簡単にすぎる。当時のイタリー、ルーマニア、ブルガリア、セルビアの類いは日本陸軍と同じ事を考えていた。ただそれでは大国の責任=平和の維持は果たせない。

またこの派兵を推進した田中義一陸軍参謀次長を批判することは簡単だが、その時国論は分裂していたから領土のような実利をあげねば国論の統一が難しかったのだろう。この時原敬は派兵を実利が伴わず国民の賛同を得られないとして反対していた。

だが当時、チェコ軍団を見殺しにしてかつ干渉戦争不参加というのは連合国の一員として出来ることとは思えない。結局、大義をわかりやすく説明する政治家が必要だ。しかしそれも英仏の第1次大戦の戦後処理をみると至難なのだろう。そういったことができる政治家をもてた国は幸せだ。ただ議員内閣制では無理でアメリカ型または現行ドイツ型首長制度(個々の政策で任期が左右されない)が必要かもしれない。もちろんそれをすれば失うものも多い。

また田中を批判すればウスーリ(沿海州)とその周辺だけで国家を成立させることが可能とは思えない。まず農業を含むあらゆる産業が無理だ。略奪的な林業と漁業程度だろう。これでは数万人しか生計が成り立たない。当然利権もない。安全保障も難しい。鉄道は当時から国家補助で成立しているだけで独立採算は不可能だ。

帝政ロシア末、ロシア国鉄には250万人が働いていた。その時日本は45万人で輸送距離は日本の方が大きい。これでどうやって採算を維持させるのか。それとも補助金与えの植民地を経営するつもりだったのか。

にも拘らず陸軍はアメリカの反対の意図がシベリア鉄道支配にあると見ていた。理由は単純だ。シベリア鉄道の技術的改善をケレンスキーがアメリカに要請した。このためスチーブンスを代表とする技師団が東京まできて、その後の十月革命のため身動きが取れなくなっていた。これをアメリカの世界鉄道支配の野望の現れだとみてとった。

またアメリカの駐日大使もスチーブンスの良好な取り扱いを要求したから話しが混乱した。アメリカの真意は石井菊次郎に伝えられており、それ以外を憶測しても問題にならない。当時の軍人の視野の狭さは如何ともしがたいが、現在のマルクス主義歴史学者がこの件を取り上げるのをみるとそこに共通性を感じざるを得ない。

ただウィルソンはロシア国民の感情を害することを怖れたが、実際は日本国民が感情を害した気がするのだが。ウィルソンとしても気持ちのうえで日本であれば言いやすいという面があったのだろう。また当時のアメリカは驚くほど世界情勢に無知だった。アメリカはヨーロッパ情勢に詳しくなく、ロシア情勢に至っては分析する機関すら存在しなかった。要するにあまり関心がなかった。しかし日本には関心があった。それが問題を複雑にする。

英仏は既に干渉戦争を実行に移しておりシベリアへは日米共同出兵しかないと考えたのだろう。またアメリカが既に200万人を消耗している英仏に意見を言うことはやはり出来なかったに違いない。そしてそもそも考える必要があったのが、日本軍が圧倒的に精強だと見られていたことだ。ただ従来にない気候と風土、敵軍とによりこれは裏切られる。当時日本の政治・経済はともかく日本の兵士は怖れられていた。単純に言えばチェコ軍団でこのような事態が起きたのを見れば、ウィルソンならずとも日本軍が5個師団も送れば1ヶ月でモスクワに達するかもしれないと判断しただろう。

ウラジオストックへの上陸

当時、連合国はドイツの国情批判とくに軍閥批判を盛んにやっていた。この批判は当然日本でも行われたが陸軍としては自らが批判されているようで決して愉快ではなかったという。田中義一は政府や与野党(この時は寺内正毅で官僚内閣)を説得していったのだが国民世論は盛り上がらない。

1918年7月ウラジオストックでパレードを行う海軍陸戦隊。

当時の第1種軍装のネービーブルーの上下に白い脚半を着用している。この当時陸戦隊の分列行進は帝国の各部隊のうち最も美しいと言われていた。このパレードを最後に陸戦隊は内地に撤収した。

右側のビルは現在でも市庁舎として使用されており、外観はこの当時と変わらないと言う。(当時はコンチネンタルホテル)


このため居留民保護の必要性のための謀略構想(*)、ドイツ軍武装捕虜の東漸(時折言われる武装難民も同様だがそんなことが起きるはずがない。)と脅威をあおった。


(*)1918年1月末ブラゴエ(シチェンスク)事件。この事件は日本の居留民の自警団がブラゴエのソビエトに参加し反ボルシェビキの決議を要求したことから始まる。ところがソビエト自体が分裂した。当時いわゆる地元民は役人以外は出征していないため、ドイツ系捕虜・中国人・日本人が過半を占めていたという。

この状態にたいしてボルシェビキは周辺の武装勢力を集め3月初旬攻勢に出た。ただ火器を使用した形跡はない。非ロシア人は対岸の黒河に渡り、再度武装して対決しようとした。この時は白軍に参加することになるアムールコサックも参加し危険な形勢となった。3月9日から12日散発的な銃撃戦が起きたが大戦闘には発展しなかった。日本側の参加者50名弱、死者1人行方不明10人警察拘禁者3人(参謀本部西伯利出兵史)という。

この元々ブラゴエに住んでいた日本人は10数名で残りは大陸浪人などが参集して来たと言われる。日本人は写真館や洗濯業・待合などを営んでいた。国内の世論はなんの関心も示さなかった。

1918年2月4日浦塩事件。約40名の帝政ロシア軍兵卒の戦闘服を着た強盗団がウラジオストックのベルサイユホテルを襲撃宿泊客から金品を強奪した。1月4日から日本海軍はイギリスの要請に従って石見・朝日といういずれも旧式戦艦を派遣していた。この艦隊の司令長官は加藤寛治で、前はインド洋で南遣艦隊の司令長官でエムデン号追跡に参加した実績がある。後年艦隊派の重鎮として知られる。イギリスも巡洋艦サフォークを陸戦隊とともに派遣した。

石見は陸戦隊を100人乗船させており、港内に停泊していた。実際のところ十月革命以降治安は絶望的に悪く、外国人居留民会議なども石見で開催される情況だった。ホテル襲撃の件は加藤は陸戦隊の上陸をめぐって本国の訓令を仰いだが否決された。

だが4月5日再び石戸商店事件が起きた。日本の石戸商店が強盗に襲われ店員1人が殺害された。加藤は独断専行し陸戦隊100人を直ちに上陸させた。イギリス軍も呼応陸戦隊50人を上陸させた。これが英仏軍の浦塩上陸の記念すべき第一日だった。

それでも世論は盛り上がらない。両事件が謀略か否か現在でも判然としない。しかし陸軍の常套手段の印象もある。
 


しかし、アメリカがチェコ軍救援を目的に出兵に合意すると世論は急転、早期に出兵しろという事になった。陸軍はウィルソンがチェコのマサリクの要請を受け入れたうえでの合意だから被害感をつのらせた。実際はアメリカとの協調出兵だとすぐに盛り上がる世論そのものが不快だったのかもしれない。だが国民もつまらない陸軍出先の謀略に辟易としていたのだろう。残念ながらこの辟易は第2次大戦終了まで続くが。

日本軍は8月11日、第12師団(大井成元)がウラジオストックに上陸した。そして沿海州(ウスーリ)黒龍州(プリアムール)東部を9月18日までに制圧、ブラゴエシシチェンスクに到達した。一方満州からも第7師団(藤井幸槌)をチタへ、第3師団(大庭次郎)を満州里からザバイカル州へ進撃させた。この3個師団(交代があるが)約7万人がこれ以降4年3ヶ月シベリアに止まることになる。

一方アメリカ軍も7000人の部隊を上陸させたが、ウラジオストックから出ようとしなかった。これは本国の指示がウラジオストックを制圧しチェコ軍の脱出を支援せよ、だけだからチェコ軍を待つ形となった。

ウラジオストックを行進するアメリカ軍。

アメリカ軍は兵員の移動に西部劇のようなキャラバンに頼った。現地徴発を回避したことは立派だが、果たして冬季戦闘に耐えることができたのだろうか。理想主義と裏腹に当時のアメリカ陸軍は決してレベルの高いものではなかった。

ところがチェコ軍はこの時英仏軍人の指揮下にあり、むしろモスクワ攻略を狙って西へ進んでいた。英仏軍から裏切られた形のアメリカ軍は、次第に日本軍につきまとう形となり、今度は日本軍が監視しているのではないかと被害感をつのらせた。現在でも日米で最大12000人の派遣で約束したと書かれている史書があるが謬説である。日本は共同・同一行動の米側申し出を「日本軍は自らの見識で自らの利害にたって行動する。」といって断った。

実はこの表現は1914年7月のドイツの最後通牒をうけたフランスの回答の調子に似ている。この後パリ講和会議では、クレマンソーは日本全権の西園寺と友人で、山東利権について最後にフランスの国益を省みず、日本の味方をした。この時フランスは日本の青島での軍事行動を評価したという。尚武の精神に溢れていた当時のフランス人にとって軍事行動なしに講和会議で戦勝国として振舞うことは許せなかった。こういった時代の雰囲気が日本の外交上なんらかの影響をしたのだろう。またウィルソンは日本軍の1個師団、1連隊欠の派兵決定を日本より早く英仏に示唆しており、当初日本の派兵自体をアメリカのイニシアチブに従ったものとみなしていた。

日本軍が上陸したのは8月11日だ。この日までにルーデンドルフの5次にわたるカイザー攻勢は終了し、失敗に終わった。参謀本部は昨年末より西部戦線の兵棋演習を相当の密度で実施しておりドイツの敗色については認識していた。これはアメリカも同様と思われる。ところが英仏は当事者であるだけにこの時点でも1918年度中の勝利を見通すことはできなかった。

そしてドイツは休戦日まで東部戦線に約50個師団100万人を貼りつけたままだった。これは第1次大戦最大の謎である。この時ドイツ東部軍に後備師団が多かったのは事実だが英仏の情況も似たりよったりでフランスに至っては現役師団に後備兵(32歳から48歳)を混入させていた。つまりこの時ソ連は実質上ドイツの東部軍に対抗できる状態になかった。現にドイツへの屈服である8・25条約を締結している。干渉軍としては日本の3個師団は最大だがかといってウラル山脈を大突破し東部戦線を再構築できる程の兵力ではない。ただ当時国内に12個師団あり1ヶ月で部分動員が可能だった。また予備役を含む動員をかければ3ヶ月以内に50個師団まで増強でき装備させることも可能だった。これを見ても参謀本部は当初から欧州戦線への介入は意図して避けたことがわかる。

ブレストリトウスク条約

白色政権樹立工作

ウラジオストックに上陸する前から陸軍は白軍の応援を開始していた。注意すべきはロシアの内戦は第1次大戦と違った形をとったことだ。すなわち騎兵同士の戦いだった。従って大都市を除くと騎兵の前哨戦で殆ど形がついてしまったケースが多い。この形は1921年のソ連・ポーランド戦争まで続いた。

これにたいし日本軍は都市の駐留部隊と鉄道線路防衛隊が中心で守勢にたっていた。日本は騎兵中隊を相当数送ったが馬匹総量は15000頭と兵員の数に比べ少ない。当然騎兵となるとコサックが中心で赤白共にコサック軍を前面に戦った。外征軍=干渉軍は港湾または鉄道中心都市に閉じ込められた。日本軍も実際のところ満州との連絡線以外はシベリア鉄道外には出るのは困難だった。

日本陸軍の白色政権樹立工作は十月革命発生のときから追及されていた。ただこの段階では政府が大きく関与していたとは言えない。陸軍が政権樹立にあたって適任者を物色しているうちに、トランスバイカル(当時の陸軍はロシア地名について英語を用いていた。トランスバイカルはバイカル湖周辺から奥地を含む。ザバイカルは湖周辺の州の名)の頭領(アタマン)セミョーノフがボルシェビキと交戦を開始、拠点を満州里に設置した。その時部下は110騎にすぎなかった。               セミョーノフ

当時満州は名目的には袁世凱政府の支配下とされたが実効的な支配が及んでいるとは言えなかった。そこで参謀本部は独自に支那(当時)陸軍参謀本部主任の徐樹錚と日華陸海軍共同防敵軍事協定を締結した。これは重要な意味を保有した。当時大清帝国は革命により崩壊袁世凱が政権の首班となって対外的地位を代表していた。

ところが袁世凱は旧政府の債権・債務の継承などはっきりさせなかった。このため袁世凱の国がいかなる領域を保有し政府の代表機関が誰か明確でなかった。とくに満州は満州族の故地で漢民族はいない建前だった。そのうえ帝政ロシアは北満を東支鉄道長官によって実効支配していた。そして帝政ロシアの継承もはっきりせず、満州は事実上無主の状態にあった。

陸軍参謀本部は北満自由通行権(治安はすでに確保されていないから全く価値はない。)を得る代償に支那政府の満州統治権を認めてしまった。満州が誰の土地かを論ずる前に、この統治権承諾が他の大国に与えた影響は無視できない。満州事変から陸軍自体もこの問題に苦しむことになる。陸軍が外交に出ても成功しない好例だろう。要するに実効支配政権が登場するまで承認しなければよいのだ。

実際はこの協定は支那軍の装備を日本が無償で与え、他国にたいして支那軍の参加という名目がたつようにするという国家目標を理解しない偏頗なものだった。段其瑞政権支援という陸軍の情緒的支援が問題を困難にした。近代の外交に中世アジア的な常識を持ち込み失敗する好例だろう。

ともかくこの協定により陸軍の策動の中心は満州となり、ハルビン総領事佐藤尚武及び陸軍ハルビン特務機関長中島正武が重要な役割を果たすようになる。また二人とも熱心な派兵論者だった。当時、名称は特務機関だが謀略を任務としたわけではない。単純には政務上のことについて現地軍と本部の連絡機関だ。当然全て公開されていた。

広いシベリアで白軍として活動したのはセミョーノフだけだが、野心家は沢山いた。セミョーノフは帝政ロシア軍で大尉でありいかにも貫禄が不足していた。ハルビン機関はその不足を補う意味で東支鉄道長官ホルワットをたてることにした。そしてその唯一の武力だったセミョーノフには黒木親慶大尉が指導役として配属された。ここまでは1918年3月頃であり派兵を前に工作は相当進んでいた。

ところが4月黒海艦隊司令長官のコルチャクが突然東京に現れ、極東について自分が白軍の指導者だと名乗り始めた。これは実はイギリスのノックス少将の指しがねだった。ノックスはタンネンベルグ包囲殲滅戦の際、サムソノフと同行しその最後の言葉を記録した人物でその後ロシア大本営(スタウカ)に長くいた。このためイギリス軍人としてロシア軍に最も食い込んでいた。

ところがコルチャックは東京駅ステーションホテルの2階に閉じこもるばかりで日本人との接触を嫌った。そして陸軍からハルビンに行き連絡をつけるよう要請されようやく重い腰をあげた。これは5月の話しでコルチャックは日本が派兵しないと見ていたのだろう。一方イギリスは早くからチェコ軍を白軍の一部として使用する計画を練っており、コルチャックはその指揮官となる含みで日本滞在を要請したものとみられる。またこの工作はノックスの個人的なプランだという説もある。

コルチャックはハルビンまで行ったがそこでハルビン特務機関の中島正武と喧嘩になってしまう。中島からみればホルワット工作をしている所に急に現れたから面白くなかったのだろう。しかしこの事件は尾を引くことになる。

一方赤軍の方はラゾという謎のユダヤ人に率いられた一隊がザバイカル州中心に行動し、セミョーノフを圧倒し始めた。ただウスーリコサックのカルムイコフ、アムールコサックのガモフも合流を開始しセミョーノフの軍も2000騎を越え始めた。

またその工作とは別にレベデフという人物がウラジオストックで白色政権を樹立したと自称し始めた。それを海軍の加藤寛治が応援を始めた。陸軍はホルワット工作をしていたから陸海軍の対立に発展した。

ただ大正期の特色だが海軍は元気がなかった。シーメンス事件、戦果獲得の失敗(第1次大戦で海軍は太平洋・インド洋・地中海に軍艦を派遣したが青島を除き潜水艦も含めドイツ艦を1隻も沈めることができなかった。)がこたえたかもしれない。7月12日、徳山湾で事故により21200トンの失敗ド級戦艦河内が事故で爆発沈没した。約700人が運命を共にした。これも不運とはいえ海軍の発言力低下につながった。とにかくシベリア出兵全期間中の戦死者が4600人にすぎないのだから事故死の700人がこたえたのは仕方がない。

そこまででも耳を疑う混乱だが、イギリスの再三にわたる方針変更が拍車をかけた。この時点で全世界にわたる情報を得ていたのはイギリスに限られた。イギリスは艦隊を浦塩に送ったがその後そこで待機していた。これの原因はルーデンドルフによるカイザー攻勢だった。すなわち戦況不利とみたイギリスは4月からボルシェビキを味方につける工作に出た。これもチャーチルがイニシアチブをとったがロイドジョージも賛成し本格的な交渉を行った。条件は東部戦線の再開と連合国によるボルシェビキの承認だった。しかし再戦はボルシェビキの指導方針を根底から覆すものでついに受け入れられなかった。ドイツは一方この間、東部戦線の再開を懸念ボルシェビキに圧力をかけた。要するにチェリヤビンスクでのチェコ軍の決起がすべてを変えるまで事態は流動的だった。

チャーチルの前線視察

イギリスはボルシェビキの再戦を条件にチェコ軍団をボルシェビキに差し出す覚悟もあったと思われる。またボルシェビキの側にたてばトロツキーによるチェコ軍団の(*)武装解除要求が失敗だった。これは武器の不足を補う意図があったが、このような反応がはっきりしない事態にたいし目的を二つもってはいけない。チェコ軍団の追い出しを優先すべきだった。

(*)ドイツ軍の要求によるという説もある。

アメリカは反ドイツという点でボルシェビキを敵とする事はないと元来考えていた。しかしチェコ軍団の孤立という事態は、連合国をすべて反ボルシェビキに追いやった。チェリヤビンスク事件を連合国の謀略とする日本のマルクス歴史学者の説があるが、連合国は反ボルシェビキでなく対独戦争勝利を目指して結合している点を見落としている。主犯謀略説はみなそのようなもので動機がなくまた露見したときのリスクについての検討がなされていない。ただマルクス主義歴史学者の説の通り陸軍はこの時、ソ連東部3州の領土獲得で動いていたことは事実だ。

チェコ軍の動向

7月6日、チェコ軍はウラジオストックを全面占領し連合国の保護下とすることを宣言した。現地にあったソビエト政府の要員数名が交戦のうえ死亡した。そしてフランスのジャナン中将の指揮下、部隊を逆に西進させ始めた。

日本軍が浦塩に上陸しまた満州から軍を入れるとたちまち東部3州の治安は急速に回復した。当時のソ連は革命後のことで絶望的に食料事情が悪くシベリアも例外でなかった。しかし満州からの物資が流入するようになり飢餓の状態はここでは改善されつつあった。ところがシベリア鉄道は中立的に細々と運行されていたから、人々は自らの予想の従って東西に移動を開始した。

8月末までにフランスは安南軍(ベトナム北部の地名だがベトナム人を中心に連隊が結成されていた。)1個大隊(1200人)、イギリス1個大隊(グルカ兵を中心とする香港駐在部隊)が浦塩展開を終了した。

ところが日本が予期する所と異なり英仏軍は浦塩からいきなりオムスクに突進した。その時既にチェコ兵はオムスクに展開を終了しており、示し合わせた行動だった。これはイギリスのアルハンゲリスクへの上陸、バクーへの進撃と呼応した動きだった。日本陸軍は全世界的視野に欠けるから、日本の領土的野望は全体としてのソ連が崩壊せねば達せられないことに気づかなかった。

9月末には日本軍はザバイカルから浦塩まで、チェコ軍団はオムスクから浦塩まで、英仏軍はオムスク、アメリカ軍は浦塩だけとめいめいが思惑を秘めた布陣となった。

ただ極東にいる連合国軍がバラバラの行動をとってもよくないという事で、浦塩派遣軍司令部(大谷喜久蔵)を樹立した。一応この司令部がチェコ軍団、英仏軍、アメリカ軍、日本軍その他8ヶ国軍を統括することになった。ところが全く機能しなかった。英語が話せる人間はほとんどおらずコミュニケーションが不可能だった。そのうえ範囲をプリアムール以東と限定したため英仏軍は範囲に入らず、浦塩のアメリカ軍と摩擦を引き起こしただけだった。当時の陸軍軍人は他国の正規軍を指揮する教育は全く受けていない。

ボルシェビキによる皇帝一家の殺害

7月10日、チェコ軍がシベリア鉄道沿いに展開しウラル山脈を越えた。ウラル地方のボルシェビキの中心都市はエカチェリンブルグだった。1918年の1月の制憲選挙でボルシェビキは惨敗、シベリアでは得票率が20%を越えることはまずなかった。ところがエカチェリンブルグでは得票率が40%を越え「赤いウラル」と呼ばれた。

7月10日レーニンはエカチェリンブルグに4月30日に移送されていたニコライ二世皇帝一家の殺害をウラルソビエト軍事委員ゴロシチョキンに命じた。

皇帝一家は技師イパーチェフが所有していた館に幽閉されていた。7月16日、エカチェリンブルグのチェカー(秘密警察KGBの前身)次席ユロフスキーに率いられた処刑団12名が、館の地下室で皇帝一家7名及び近親者3名合計10名を銃器で殺害した。

遺体はトラックで運ばれ近くの廃坑に投げ込んだ。そして手榴弾を投下した。数日後ユロフスキーは発見されるのではないかと不安になり、遺体を回収し再びトラックにのせた。ところがトラックはぬかるみにはまり動けなくなった。その場で顔をハンマーで叩きつぶし身元を隠蔽し近くに埋めた。

処刑団はロシア人5人金銭で雇われたハンガリー人の投降捕虜7人で構成され、白軍に逮捕された1人を除きボルシェビキ政権が安定すると事件を吹聴してまわった。ユロフスキーはウラルに止まり共産党の安楽な地位を楽しみ1942年病気で死亡した。一方ゴロシチョキンは栄達した。1924年、カザフ共和国首長となった。そこでカザフ人と対立、徹底的な弾圧策に出た。任期終了の1932年までにカザフ人の人口570万人は半分以下に減少した。多くは餓死または処刑された。この比率はカンボジアのポルポトによるものより高い。ゴロシチョキンは1930年代のスターリンの粛清からついに逃れたが、最後1940年処刑された。

チェコ軍はこの殺害事件から一週間遅れてエカチェリンブルグにはいった。コルチャックは事件の厳重な調査を命じ、遺品や証言である程度の輪郭はつかむことができた。

レーニンは諸外国の批判を免れるためか翌年1920年社会革命党員25名をデッチ上げで逮捕しうち4名を皇帝殺害の罪で処刑した。しかし疑いをはらすに至らなかった。皇帝一家の殺害場所や遺体が埋められた場所は1970年代まで周知だった。ところが1988年ゴルバチョフにより改めて調査の実施が宣言されるや関係者は沈黙を開始した。1992年からイギリス人も交えて遺体の発掘調査が開始された。1994年DNA鑑定により全員の遺体確認が終了した。2000年モスクワ大主教により皇帝一家は聖人に列せられた。

現在ロシアではロマノフ王朝の復活を要求する政治運動もあるようだ。ただし当時は少なくともニコライ一家からの人間の復辟を要求する声は白軍のなかにもなかった。またロシア国内で一家を救出しようとする団体も存在しなかった。この不人気の理由はラスプーチン、ドイツ人妻アレクサンドラ、二つの敗戦、過酷な弾圧と幾つかあるだろう。ただロシア的と言えばそれきりだが、帝政ロシア軍将兵は神(信仰)と祖国のため戦ったのでニコライ二世のために戦うという意識は希薄だったようだ。

 

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