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낙서판

조선족 역사 연표    

by 8866 2008. 9. 4.

 

朝鮮族の歴史年表     

 

 

1712年 中国と朝鮮両国が鴨緑江と土門江(豆満江)を国境とすることで合意。
1859年 琿春協領を副都統協領に昇格。
1869年 未曽有の飢饉によって朝鮮人が延辺に流入。
1875年 清が西間島の封禁政策を廃止。
1881年 清が間島で封禁政策を廃止、朝鮮に対して間島地域朝鮮人の送還を要求する。
1882年 清が入籍令を発布し朝鮮人の帰化を勧誘。
1883年 朝鮮が豆満江封禁令を廃止。
集安に密偵として入った酒匂景信が広開土王碑の拓本を日本に持ち帰る。
1884年 朝鮮の鐘城から開山屯を経て龍井に至る路線が敷かれる。
吉林省が朝鮮と「商民貿易地方章程」を結び、商埠地を指定し、貿易を自由化する。
1885年 乙酉談判。
清が封禁令を全廃し越墾局を設け、朝鮮移民による開墾を奨励する。
1887年 丁亥談判。
1900年 義和団事件を契機としてロシアが満州を占領。ロシア軍が局子街に侵入する。
中国人は吉林方面に避難したため朝鮮移民が急増。
1902年 朝鮮政府が李範允を北墾島管理使に任命。李範允は私兵団を作り朝鮮移民を保護する。
1906年 朝鮮人による中国で初の近代的な学校である瑞甸書塾を龍井に設立。
1907年 8月19日、日本軍が龍井に進駐、龍井村に朝鮮統監府間島派出所を設置。
瑞甸書塾は創建8ヶ月にして日本の圧力を受け廃止。 
1908年 4月27日、瑞甸書塾の金躍淵が明東書塾を開く(のち三年制の中学校に発展)。
7月1日、日本は瑞甸書塾のあった場所に間島普通学校を開校。昌東学校・光成学校も開設。 
1909年 9月4日、龍井で間島協約が結ばれる。
(日本は清の間島領有権を認める一方、朝鮮人の間島での居住権、間島総領事館を龍井に開設して警察官を駐在させる権利、吉林と朝鮮の会寧を結ぶ鉄道の敷設権を手に入れる。)

10月26日、安重根がハンルピン駅で伊藤博文を暗殺。
11月1日、日本が朝鮮統監府間島派出所を廃止。
11月2日、日本が間島日本総領事館を龍井に設置。鈴木要太郎が代理総領事。 
1910年 8月29日、日韓併合。
10月7日、基督教会の朴茂林らが龍井に尚貞女子学校を創設。
民族宗教である大教が北間島に支司を設置する。 
1911年 5月9日深夜、間島日本総領事館と90戸以上の日本人住宅で火災。
新義州と安東(丹東)を結ぶ鴨緑江鉄橋(944m)が朝鮮総督府鉄道局によって完成。 
1912年 龍井に間島神社が建てられる。
9月14日、基督教長老教会の曹喜林らが龍井に永新学校を創設。 
1913年 カナダ人長老派宣教師パーカーが龍井に教会を開く。 
1914年 大教が本司を間島に移す。 
1916年 1月16日、龍井で大火災発生。
日本朝鮮銀行支店を龍井に設立。
龍井から会寧に通じる道路が開通。 
1917年 東洋拓殖株式会社間島出張所(東拓)、朝鮮人民銀行主張所、間島商業金融株式会社を設立。
延吉師範学校(現第一師範)設立。
12月30日、詩人尹東柱が龍井智新鎮明東村に生まれる。 
1919年 3月1日、3・1独立運動。
3月13日、3・13運動。3・1運動の影響を受け龍井で反日大会を開く。(金永学が大会会長。参加者は2万あるいは3万人とも。金永学は「独立宣言」を朗読。大会結束後、「朝鮮独立万歳」の標語をと掲げデモ行進。鎮圧にあたった孟富徳の中国軍部隊はデモ隊に向かって発砲し19人が死亡。)

3月17日、13日の死者の埋葬を行うとともに反日デモを開く。義士陵が築かれる。
4月2日、石建坪で反日デモ。8千名が参加。 
1920年 1月、尹俊熙らが日本朝鮮銀行の騎馬隊を襲撃し15万円を強奪。
2月4日、長老派教会が龍井に恩真中学校を創設。(校長フォード、学生数27人で5年制。英語、聖書、漢文、理科などを教授。開学後すぐ日本の警察によって2名の教師と20名以上の学生が逮捕される。)

6月4日-7日、鳳梧洞戦闘。日本軍南陽守備隊が図們で新民団と衝突。
9月12日と10月2日、琿春事件。(総督府に買収された中国人馬賊長好江らが2回にわたって約400名の兵力で琿春城を襲撃する。日本領事館を破壊し、日本人を殺傷。日本政府はこの事件を大々的に報道し日本軍出兵の口実とする。)

10月下旬、庚申年大虐殺(庚申大討伐)。日本軍は大挙間島一帯に出兵し朝鮮人の村を焼き3000人を虐殺。 10月20日-23日、青山里戦闘(韓国では青山里大捷あるいは青山里独立戦争と呼ばれる。金佐鎮、洪範図らが率いる約2千~3千人の独立軍が日本軍と衝突。大小10回の戦闘の結果、日本軍の加納大隊に大打撃を与える。日本軍は約6百~8百名が戦死。) 
1921年 4月、天道教会が龍井に東興中学を創設。
5月、基督教会が龍井に永新中学を創設。
10月5日、大成儒教孔教会が龍井大成中学を創設し開校式を開く。 
1922年 天宝山・龍井・開山屯を結ぶ天図軽便鉄道が敷設。
11月27日、龍井の間島日本総領事館で火災が発生。 
1923年 3月、共産主義者の金思国らが龍井に東洋学院を開きマルクス思想を広める。
その他に学生親睦会、社会科学研究会などのマルクス思想勉強会が開かれる。 
1924年 7月、龍井に労働学院創設。マルクス思想を広める。
延吉運輸組合、計量組合、龍井建設者同盟などの労働者革命組織が成立。 
1926年 1月、東満青年総連盟、間島少年会、労働会、婦女会などの革命団体が成立。
5月、新しい間島日本総領事館が竣工(現龍井市政府庁舎)。
5月、珠河県一面波で朝鮮共産党満州総局が創設され本部を寧古塔に置く。
6月、奉天軍閥警務処処長干珍と朝鮮総督府警務局長三矢宮松との間に三矢協定が結ばれる。朝鮮人取締りにたいする協力体制の確立。
7月、朝鮮共産党東満区域局が龍井で成立。崔南善は白頭山に登り東亜日報に「白頭山観参記」を発表。 
1927年 豆満江にかかる鉄橋が開山屯と三峰の間に建設される。
10月、間島第一次共産党員逮捕事件。
セムプロの演劇団体「芸文社」が龍井で成立。 
1928年 1月、中国共産党満州省委は周東郊を龍井に派遣。中国共産党東満特別支部を創建。
9月、間島第二次共産党員逮捕事件。
10月、龍井に中国共産党東満区委を設置。
間島凶作。
中国共産党が朝鮮人を国内の少数民族と認め、革命後には自治権を与えることを方針として確立。 
1930年 1月23日、「光州学生反日闘争」支持のデモが龍井で開かれる。(日本の警察は50名以上の学生を逮捕。これに抗議して学生が恩真中学校校庭に集合し日本の警察数十名を殴打。)

2月、中国共産党延辺特別支部が成立。
3月、間島第三次共産党員逮捕事件。
4月5日、中国共産党満州省委員会は極左的な「赤い5月」方針を発布。
5月1日、龍井の多くの学校でストライキ及び各地でデモ。「紅5月闘争」の開始。
5月30日、間島5.30蜂起(紅5月闘争)。(間島在住の朝鮮人共産主義者が組織した蜂起。龍井、頭道溝など天図線(天津・図們間)沿線を中心に領事館、電灯会社、駅などを放火、破壊。和龍県薬水洞ではソビエトを樹立したが弾圧される。翌年8月までに2000余名が検挙される。後に極左方針と総括される。)

8月1日、八一吉敦暴動。
秋収暴動。 
1931年 春荒暴動。
9月18日、満州事変。
万宝山事件。(長春郊外の万宝山で朝鮮農民の水路を中国人が破壊。日本は中・朝両国民の離反を煽るために大々的に報道。平壌、仁川などで中国人街に対する暴動が発生。) 
1932年 2月5日、日本軍がハルピンを占領。
2月15日、龍井で日本の謀略団体である民生団が組織される。間島朝鮮人の反発を受け7月には解散。
3月1日、満州国の建国を宣言。
3月、高知の詩人植村浩が代表作「間島パルチザンの歌」を発表しパルチザンをロマンチックに描く。
4月~、日本軍は朝鮮羅南19師団の間島派遣隊、長春駐屯の関東軍の平賀部隊は延辺において朝鮮人村落を襲撃し弾圧を行う。延吉県海蘭地区で海蘭江大血案が発生。

4月29日、上海の虹口公園で行われた天長節の式場で尹奉吉が爆弾を投げ、上海派遣軍司令官の白川大将が死亡する。
11月、中国共産党東満特委員会は反民生団闘争を展開し多くの同志を粛清。 
1933年 図們と新京(長春)を結ぶ鉄道が敷設される。
3月、日本共産党員である関東軍軽重隊員伊田助男が10万発の弾薬をトラックに積み小汪清抗日遊撃区に運んだのち自殺。
5月、民生団員とされた汪清県委員会書記李龍国が同志10名とともに銃殺される。
9月、東北人民革命軍第一軍第一独立師が創建される。師長は楊靖宇。
10月、汪清県の県委員書記の金権一が民生団分子として逮捕・銃殺される。 
1934年 3月、東北人民革命軍第二軍第一独立師が延吉県で創建される。師長は朝鮮人の朱鎮、政治委員は中国人の王徳泰。
12月、吉林省に属していた延吉県、汪清県、和龍県、琿春県の4県に奉天省に属していた安図県を加え、間島省を創設し朝鮮人省長を任命する。図們市は延吉県から分離独立し、図們に間島日本領事館分館が新設される。 
1936年 長白県で在満韓人祖国光復会結成。 
1937年 普天堡戦闘(当時の新聞では保田事件)。第一路軍第二軍所属第六師長金日成部隊による。
間島陸軍病院が設立される。
ソ連が沿海州に住んでいる朝鮮人を中央アジアに強制移住する。これは日本のスパイになることを警戒したため。 
1938年 7月~8月、張鼓峯事件。今の琿春市防川で日本軍とソ連軍が衝突。
10月10日、武昌で金若山を総隊長とする朝鮮義勇軍が結成される。
東満鉄道株式会社を延辺に設立。
開山屯にパルプ工場が竣工。 
1940年 3月、紅旗河戦闘。金日成が指揮する抗日連軍第二方面軍六師が前田部隊と衝突。 
1941年 8月25日、鴨緑江の水豊ダムが初送電を行う。水豊ダムは70万キロワットを発電。
関東軍特別大演習が行われ延吉の北の丘に部隊駐屯地が造られる。 
1943年 延吉県から間島市(現延吉市)が独立。 
1945年 2月16日、福岡刑務所で尹東柱死去。
7月末、88特別旅団は党委員会全体会議を開き、旅団の中核部隊の半数を満州に、残りを朝鮮に派遣することに決定。朝鮮工作団を新設し金日成が団長に就く。
8月12日、龍井の市民有志が「ソ連赤軍歓迎委員会」を組織しビラを作成。
8月15日、日本無条件投降。
8月16日、ソ連軍、間島市(延吉)に入る。
8月17日、ハルピンで反日朝鮮民族独立同盟北満特別委員会設立。
8月19日、市民2万名余りが参加しソ連軍の歓迎会が龍井で開かれ延吉のソ連赤軍警備司令部に代表を送り祝福の意を伝える。
8月20日、間島臨時政府が成立。
8月22日、関東軍127師団(古賀竜太郎中将)の武装解除の会談が127師団本部で開かれる。ソ連側代表は第25軍参謀長のクズニェツォフ中佐。
8月23日、延吉県臨時政府が樹立される。
8月30日、ハルピンで建国青年会(朝鮮族革命組織)設立。
9月16日、延辺労農青婦総同盟が成立。
9月13日、延吉で延辺労農青年婦人代表会議開催。
9月下旬、延吉に池喜謙を委員長とする延辺人民民主大同盟が成立。中共延辺委員会指導下の基層組織で14万人が会員。朝鮮族が成員のほとんどを占める。
9月30日、汪清県臨時政府が樹立。
10月12日、中国共産党敦化県委が創立される。
10月20日、吉黒保安総隊朝鮮独立大隊設立。
10月20日、中国共産党東北委員会の批准を経て姜信泰(27歳)を書記とする中共延辺臨時委員会が設立される。
11月7日、中国共産党延辺臨時委員会が「延辺同胞に告げる書」を発表。
11月20日、延辺各界人民代表会議(18名)を開き延辺政務委員会(13名)が選出される。間島臨時政府は解散。 
1946年 2月、通化事件。(旧日本軍と日本人市民が国民党軍とともに暴動を起こし八路軍によって鎮圧される事件が発生。2000人の日本人が虐殺される。)
4月、各地からソ連軍の撤退
10月30日~11月5日、海蘭江大血案(大虐殺事件)清算大会 
1947年 1月25日、延吉で第1次労働者代表大会を開く。
2月、中共中央東北局の批准を経て吉林省委は中共延辺地方委員会を創立し延吉、和龍、琿春、汪清等4県を管轄。 
1948年 4月、「延辺日報」創刊。
4月26日、中国共産党延辺地区委員会が成立。
8月15日、中国共産党延辺地区委員会は延辺の民族問題に関する決議文を採択し、朝鮮族の少数民族としての地位を確定。
9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が創建される。 
1949年 3月20日、延吉のスターリン劇場にて延辺大学開校式が開催される。
7月、延吉人民ラジオ放送局が朝鮮語の放送を始める。
9月、中国共産党が東北の朝鮮人に一律に中国国籍を与える。
10月1日、中華人民共和国建国宣言。 
1950年 6月25日、朝鮮戦争開始。
9月15日、米軍は仁川に上陸
10月8日、「義勇軍」の派遣を決定。 
1951年 4月23日、北朝鮮軍・中国義勇軍が再び38度線を突破。 
1952年 9月3日、延辺専区を取り消し、延辺朝鮮民族自治区成立。 
1953年 3月、州内で初の高級農業生産合作社が設立される。
7月27日、板門店にて休戦協定が成立。 
1954年 12月、朝鮮語版毛沢東選集出版委員会が設置される。 
1955年 12月、延辺朝鮮族自治州と改称格下げされ、吉林省の管轄下にはいる。 
1956年 5月26日~、百花斎放、百家争鳴の呼び掛け。少数民族の知識人は漢族の優位を批判。 
1957年 6月8日の人民日報社説が契機となり、以後、反右派闘争開始。中国共産党の政策に批判的な朝鮮族知識人を「右派分子」として批判。 
1958年 民族整風運動と漢語学習運動。
朝鮮語純潔化に対する批判。
大躍進運動開始。
9月15日、長白県朝鮮族自治県成立。 
1960年 9月7日、延辺大学の入学式。この年より朝鮮族以外の民族が入学。 
1961年 7月11日、金日成、訪中。中朝友好協力相互援助条約調印。
この頃、大躍進運動により食糧が不足したため多くの朝鮮族が北朝鮮の親戚から援助を受ける。 
1962年 10月、中朝は平壌の会談により中朝辺界条約を締結。この条約により鴨緑江、豆満江が中朝国境として確定し長白山(白頭山)天池に国境が引かれる。 
1963年 9月、日本朝鮮研究所代表団(親北朝鮮文化人)が延辺を訪問。戦後延辺を訪問した最初の日本人。 
1965年 延吉県の図們鎮と汪清県の石硯鎮を合わせ図們市設立。 
1966年 文化大革命開始。紅衛兵運動の開始。工作組の進駐と撤退。実権派の追い落とし。 
1967年 紅衛兵運動の過激化と解放軍の介入。 
1968年 紅衛兵運動の終焉と革命委員会・解放軍によるコントロール。奪権闘争の完了。
12月21日、毛沢東、紅衛兵の農村下放を指示。 
1969年 12月、延辺で学校幹部の「下放」開始。 
1971年 3月、中共延辺朝鮮族自治州委員会を回復。 
1972年 中朝両国が黒龍江省大慶から北朝鮮までを結ぶ石油パイプラインの建設に合意。 
1974年 4月、延辺歌舞団が復活する。 
1975年 朝鮮族の学校における日本語教育が再開。 
1976年 1月8日、周恩来首相死去。
1月、黒龍江省大慶から北朝鮮までを結ぶ石油パイプラインが開通する。
9月9日、毛沢東死去。
10月6日、江青ら四人組逮捕。 
1977年 延辺テレビジョン放送局創立。 
1978年 文化大革命の終焉・鄧小平が最高権力者に。
延辺大学に日本語学科を設立。 
1979年 延辺広播電視大学が創立される。 
1980年 2月、延辺朝鮮族自治州革命委員会を自治州人民政府に改める。 
1981年 9月、延吉教会が復活。
11月5日、延吉市朝鮮族芸術団が成立。 
1982年 9月、金日成が中国を公式訪問し中朝関係が修復される。 
1983年 5月5日、中国民航ハイジャック事件が発生。中国民航は韓国の米軍基地に緊急着陸。この事件に関する交渉を契機として中国は「南朝鮮」の呼称を「韓国」に改める。
8月、鄧小平が延辺を訪問。 
1984年 3月23日、中国は離散家族再会のための韓国人の訪中を認める。
4月1日、朝鮮語版「延辺日報」を創刊する。 
1985年 外国人に対して延吉を開放。
自治条例を発布施行。首長は朝鮮族が担当すると明記。
1月19日、延吉市天主教愛国会と延吉市天主教会(旧教)が成立。
5月14日、尹東柱の墓を40年ぶりに確認。
8月29日、延吉空港の軍民両用飛行場としての使用開始。 
1986年 3月、琿春天主教会が成立。
6月、日本の民団議長ら来訪。
文革時、紅衛兵によって破壊された龍井の井戸を修復し紀念碑を建てる。 
1987年 7月18日、延辺体育館が竣工する。 
1988年 龍井県・琿春県を市に改める。
9月、ソウルオリンピック開幕。 
1989年 6月4日、天安門事件
6月23日、趙紫陽が失脚し江沢民が登場。 
1990年 9月30日、韓国はソ連と国交を樹立。 
1991年 1月、江沢民総書記が延辺を訪問。
1月、中韓両国は貿易事務所の相互設置を認める。
5月、中露は東部国境協定に署名。
7月、李鵬首相が延辺を訪問し「発展経済、振興延辺」と揮毫。
7月、韓国現代グループ名誉会長鄭周永一行が延辺大学を訪問。
7月末、長白朝鮮族自治県が対外開放される。
9月、韓国と北朝鮮は国連に同時加盟。
10月24日、国連開発計画(UNDP)は金三角開発計画を発表
12月28日、北朝鮮は羅津・先鋒地区に621平方キロに及ぶ自由経済貿易地帯(Free Economic and Trade Zone)を設置することを発表。 
1992年 1月、中朝政府間貿易協定を締結。中国は北朝鮮に対して貿易のドル決済を要求。
3月29日、琿春は国より対外開放都市に指定される。
5月、中朝合弁のレストラン延辺平壌食堂が開店。
6月、ロシアはポシェット港を外国船に開放。
7月1日、ロシアはザルビノ港を開放。ザルビノ港を70年間共同使用すると同時に、琿春までの鉄道と道路を建設することに合意。
8月、延吉・敦化・安図・図們の4県市は省政府より省級経済開発区に指定される。
8月24日、 中韓国交樹立。
12月、長嶺子―クラスキノ間のトラック輸送道路が完成する。 
1993年 3月、北朝鮮は羅津・先鋒自由経済貿易区開発計画を発表。
3月、北朝鮮は核拡散防止条約から脱退を宣言。
5月、尹東柱の代表作「序詩」を刻んだ記念碑が韓国東亜日報と海外韓民族研究所によって龍井中学校庭に建てられる。
6月、北朝鮮と延辺州政府は、清津東港を開発し、50年間共同使用する協定を締結。
9月、経団連主催の図們江セミナーが東京で開催される。
9月、延辺科学技術大学設立。(中国初の私立大学)
10月、延吉―清津間の高速道路建設に着手。 
1994年 延辺大学に経済貿易日本語学科(定員30人)を設立。
韓国企業が延吉に韓国人向けアパートである「韓信公寓」を建設。
6月、海外韓民族研究所と東亜日報の協賛により龍井中学校の校庭に大成中学校が復元される。
7月8日、金日成主席死去。
8月、龍井の尹東柱生家を復元。 
1995年 人民公園の北の丘に烈士陵園が落成する。
5月26日、北朝鮮は日本に対して米援助を要請。
6月、江沢民が延辺を再訪。白山ホテルに宿泊。 
1996年 北朝鮮では飢餓が蔓延。
4月、第一回図們江地域開発諮問委員会を北京で開催。
9月、韓国の教会の支援10億ウォン(約1億円)を受け延辺で最も大きな延吉教会が建てられる。 
1997年 2月、黄長燁朝鮮労働党書記が北京で亡命。
3月、延辺大学日本研究所が成立する。
4月末、北朝鮮の咸鏡北道穏城郡で大規模な森林火災が発生。 
1998年 中国側の難民取締りが厳しくなる。
6日1日、延辺韓国学校開校。
7月22日、北朝鮮は中国製品の販売禁止措置を解除。
7月24日、丹東フェリーの運航が開始される。韓国仁川と中国の丹東を結ぶ。 
1999年 6月、韓国のソウル九老区九老6洞に大韓イエス教長老会ソウル朝鮮族教会が創立される。
8月12日、韓国の国会で在外同胞法が可決。これには中国の朝鮮族は含まれず(2001年違憲判決が出る)。 
2000年 3月14日、現代自動車は延吉の一汽延辺汽車と中大型バス組み立て生産輸出契約を結ぶ。
4月、琿春輸出加工区が設置される。
4月28日、琿春~ザルビノ~束草(韓国)を結ぶ貨客船航路・東春号が就航。
6月13日、金大中大統領訪朝、金正日総書記と会談。
12月、琿春市内と圏河口岸を結ぶ新道(39キロ)が開通。 
2001年 2月1日、琿春中露互市貿易区(相互自由貿易区)が設置される。
6月、ソウル~延吉間にチャーター機が就航。夏季の旅行シーズンのみ週4便運航。
11月29日、韓国の憲法裁判所は韓国政府樹立(1948年8月15日)以前に中国などに移住した同胞とその子孫らが在外同胞法の優遇措置を受けることができないのは憲法違反と判決。 
2002年 5月8日、瀋陽日本大使館駆け込み(5人)
9月12日、北朝鮮は新義州特別行政区基本法を採択したと発表。
9月17日、小泉首相訪朝。 
2003年 4月23日、アシアナ航空は、5月より仁川・延吉路線を週1回(月)から週3回(火・木・日)に増便。
5月10日、SARSの影響を受け琿春の中露税関が閉鎖される。
5月29日、韓国馬山市で「先駆者」の作曲家趙斗南氏を紀念、趙斗南紀念館が開館。しかし趙斗南氏は親日派だったという市民団体は激しく抗議、馬山市長は小麦粉を投げつけられる。ほどなくして閉館となる。
11月28日、中国琿春とロシアのマハリノ駅(クラスキノ)の間を結ぶ国際鉄道(28.3キロ)が正式に運行を開始。 
2004年 4月26日、延辺政府主催の延辺観光説明会がソウル・コリアナホテルで開かれる。
8月、長春と琿春を結ぶ長琿一級高速道路の敦化―延吉間が完工。
9月22日、中国が米国を抜いて韓国の最大の貿易対象国家になる。 

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