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중국사

제국주의시대의 중국

by 8866 2008. 12. 31.

 

帝国主義下の中国


-中国の苦難の時代- 

 

 

 

東アジアにおける列強の勢力圏(1900年代)


東アジアにおける列強の勢力圏

 19世紀後半からの東アジアへの西洋列強の進出と、東アジアにおける明治維新をなしとげた日本の勢力伸張によって、清朝を中心とする東アジアの国際関係はくずれていきました。日清戦争(1894~95)は朝鮮半島を舞台に、「中体西用」をかかげ伝統的な政治体制を維持しようとする清と、「文明開化」をかかげ伝統的な政治体制を否定しヨーロッパ的システムを導入して、東アジアに新秩序をもたらすことをめざす日本との戦いでした。国際社会の予想に反して、日清戦争での清の敗北は、欧米諸国がきそって清朝領土内での利権獲得競争にのりだすきっかけをあたえました。
 日清戦争に勝利した日本に対する三国干渉(1895)の代償として、ロシアは中国から鉄道敷設権をえました(1896)。それによってシベリア鉄道に接続する東清鉄道を建設しました。
  ロシアが清朝の東北地方を勢力圏とし、さらに朝鮮半島に対する圧力をも強めるようになると、朝鮮の利権独占を意図する日本や、北京・奉天間を結ぶ京奉鉄道の敷設をすすめていたイギリスに強い警戒感をもたせることとなりました。
 1899年のアメリカ国務長官ジョン=ヘイの門戸開放宣言は、列国による中国分割の動きを緩和させ、アメリカ資本に中国市場参入を果たさせることになりました。
 義和団事件(1900~01)後、ロシアは中国東北地方(満州)から撤兵せず、朝鮮への圧力を強めました。その結果、日本とロシアはともに朝鮮の支配をもくろんで対立を深めました。日英同盟を結んだイギリスやアメリカの支援のもとに、日本は1904年ロシアに宣戦しました(日露戦争 1904~05)。
 日本の勝利に終わった日露戦争の後、1907年の日露協約によって、中国東北地方(満州)の利権を南北に分かち、ロシアは北部、日本は南部に勢力圏をもつことを相互に尊重することが確認されました。このことは東北地方への参入の機会をうかがっていたアメリカに不快感をあたえ、この後日米関係は急速に冷却から険悪な方向へとむかいました。

日本の動きと北伐

 第一次世界大戦(1914~18)による欧米列強のアジアからの後退は、日本のあらたな対外進出の機会となりました。大戦勃発後、ドイツに宣戦した日本は、中国内のドイツの租借地膠州湾(青島)と太平洋上のドイツ領南洋諸島を占領しました。さらに1915年1月、中国に対して山東のドイツ利権の継承など「二十一カ条の要求」をつきつけました。
 1919年の大戦のパリ講和会議で、中国は「二十一カ条の要求」のとりけしや、山東のドイツ利権の返還を提訴しましたが、列国によってしりぞけられました。これに抗議して、同年5月4日に、北京大学の学生を中心に抗議デモがおこなわれました。この動きは排日の声となって各地に波及し、日本商品の排斥やストライキがおこり、幅ひろい層をまきこんだ愛国運動に発展しました(五・四運動)。
 1925年、上海の日本人経営の紡績工場で労働争議がおこりました。会社側によるスト労働者の射殺に抗議するデモ隊が、5月30日に上海の租界警察に弾圧され数十名の死傷者を出したことにより、反帝国主義運動が全国的に拡大しました(五・三〇運動)。
  同年7月、中国国民党は広州で国民政府を樹立し、翌年、蒋介石ひきいる国民政府軍が中国統一をめざして北伐を開始しました。27年3月には、南京・上海を占領しました。しかし国民政府内部では、大衆運動の拡大をめざす共産党員ら左派とこれを警戒する右派とが対立を深めました。蒋介石は同年4月、上海クーデタをおこして共産党を弾圧し、南京に国民政府をたてて主席となりました。

1930年代の中国

1930年代の中国

 一時中断されていた北伐が1928年に再開されると、日本の田中義一内閣は、日本人居留民保護の名目で、3次にわたる山東出兵をおこなって、北伐軍の北上を妨害しました。とくに1928年の第2次山東出兵では、北伐途上の国民革命軍と日本軍が済南において衝突し、いわゆる済南事件(1928)をひきおこしました。
 日本の関東軍は1933年、熱河を占領し熱河省を満州国に編入しました。35年には関東軍は河北省東部に、傀儡政権である冀東防共自治政府を樹立しました。この政府は日本品の密輸入を公認し、36年輸入港4港を開き低関税を実施しました(冀東貿易)。このような日本の露骨な中国収奪に抗して、37年7月日中戦争開始とともに日本人虐殺事件が首都の通州でおこりました。
 ノモンハン事件は1939年夏、満州国とモンゴル人民共和国との国境で、日本軍とモンゴルおよびソ連軍とが衝突した大規模な国境紛争事件です。日本軍は全滅的敗北をうけ、機械化装備や航空兵力においてソ連軍の圧倒的優位が立証されました。日中戦争の行き詰まりを北方転換によって打開しようとした日本にとって、対ソ戦争が容易でないことを痛感させました。

日中戦争の拡大

日中戦争の拡大

 1937年7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋周辺で、日本の中国駐屯軍の演習中に盧溝橋事件がおこりました。この偶発的な事件がきっかけとなって、全面的な日中戦争が開始されました。8月には上海に大軍を派遣し(第2次上海事変)、11月には杭州湾に上陸し宣戦は拡大しました。12月首都南京を日本軍が占領したさい、多数の中国人が殺されました(南京虐殺事件)。華北では38年5月日本軍は徐州作戦をおこなって山西省の要地を次々に占領し、ついで武漢(漢口・武昌・漢陽)作戦でこの地を占領しました。同時に広州に軍を進め、広東から海南島をも占領しました。
 しかし国民政府は首都を四川省の重慶に移して抗戦を続けたため、日本の中国進出は「点と線」の支配にとどまり、中国民衆の支持をえられませんでした。中国共産党は日本軍の背後でゲリラ戦を展開し、戦争が持久戦になるにしたがい、農村地域で急速に力を拡大していきました。また米・英・ソ連も中国を支援したため、泥沼化した戦争に打つ手がなくなった日本は、南京におう汪兆銘政権を樹立して重慶の国民政府に対抗させようとしましたが、戦局を転換できませんでした。
 日中戦争の泥沼化に苦しんでいた日本は、1939年にはじまった第二次世界大戦ヨーロッパ戦争の緒戦におけるドイツ軍の勝利を過大に評価して、ドイツと結んでアジアの新秩序をめざそうとしました。1941年12月8日、日本軍は太平洋におけるアメリカ軍の拠点基地、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争(1941~45)が始まりました。これにより、ヨーロッパとアジアの戦争は結びつき、第二次世界大戦は世界的な規模に拡大します。

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